中学時代にレコードを購入したら、指揮者はアントニオ・ヤニグロと書いてあった。
こいつもヘビー・スモーカーか?と思った。
ヤニグロはチエロの演奏家であったが、ザグレブで仕事中にザグレブ室内合奏団を結成して、好きな音楽を演奏していた。
ウイキぺディアの記述では
アントニオ・ヤニグロの父はピアニストを目指していたが、戦争で腕を撃たれキャリアを断念していた。
アントニオ・ヤニグロは6歳でピアノ、8歳でジョバンニ・ベルティ(Giovanni Berti)からチェロを習う。
ヤニグロはすぐさまこの楽器の虜になり、数年後にはミラノ音楽院に入学が認められ、ジルベルト・クレパック(Gilberto Crepax)に師事した。
ヤニグロが11歳の時、母ニコラの努力で、巨匠パブロ・カザルスのレッスンを受ける。
カザルスはパリのエコールノルマル音楽院でカザルスのクラスのアシスタントをしていたアレクサニアン(e:Diran Alexanian)に、「ヤニグロ少年は細やかな情感を持った、輝かしい器楽奏者・・・」との推薦状を書いた。
ヤニグロは16歳までミラノに留まり、1934年からパリのエコールノルマルに留学して、カザルスとアレクサニアンに師事する。
パリではポール・デュカス、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ジャック・ティボー、アルフレッド・コルトーといったといった才能と交わる。
またディヌ・リパッティは親友であった。
1937年エコール・ノルマルを卒業。
ディヌ・リパッティやパウル・バドゥラ=スコダと共に、ソロ活動を始める。
ザグレブ(クロアチア)はヤニグロにとって第二の故郷とも言える。
第二次世界大戦中、ヤニグロはユーゴスラヴィアのザグレブ音楽アカデミーのチェロと室内楽の教授としてザグレブに留まった。その後、1953年にザグレブ室内合奏団(I Solisti di Zagreb)を設立、自ら指揮をした。
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当時、ヤニグロが何者なのかは知らなかったが、偶然、購入した1枚のレコードから、ヤニグロの演奏が好きになった。
それから暫くは、ヤニグロの日々が始まった。
チエロの曲を多く聞くようになったのはヤニグロの影響である。
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