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2014-10-12 13:14

明から送られて来た難解な国書(改題)

P1040967.jpg

富山県南砺市井波に瑞泉寺という寺院がある。
瑞泉寺の由来については、ホームページに以下のように記されている。

井波別院瑞泉寺は、明徳元年(1390年)、本願寺5代綽如上人によって開かれました。
外国から送られてきた難解な国書を、綽如上人が解読し、天皇は大変喜び、一寺寄進を申し出られたと伝えられております。
綽如上人は、多数念仏信者の浄財による建立を希望され、天皇は勧進状を認める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可されました。
明徳元年(1390)越中へ帰った綽如上人は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を作り、広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立されました。
この寺は、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、又越中の一向一揆の重要拠点ともなった寺院となっていきます。
15世紀末には、井波城と称しました。
福光城主石黒氏を破るとともに、井波の町は寺内町として発展します。
16世紀、佐々成政の軍勢に攻められ、焼き払われてしまいます。
その後城端北野に移った後、再び井波へ戻り、現在の場所に再建されました。
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正直なところ「こんな田舎に何故?」と驚くほどの巨大寺院です。
敷地は1万坪もあり、本堂は日本でも有数の大型木造建築。
さらに、伽藍は見事な木彫りの彫刻により飾られております。

P1040973.jpg

一向一揆の拠点ということで、寺院の周囲は石垣で囲まれていました。
その石垣は現在でも残っております。

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new_P1040953.jpg

さて、ここで気になるのが、

「外国から送られてきた難解な国書を、綽如上人が解読し、天皇は大変喜び、一寺寄進を申し出られたと伝えられております。」の部分。
この外国は当時のチャイナの王朝である「明」であり、天皇は後小松天皇であることは分かっております。
後小松天皇は北朝最後の天皇であり、一休さんの父だとも伝えられております。

この明から送られて来た難解な国書の内容なのですが、現地の寺側の説明によると、
「富士山を戴きたい」という内容であったということです。
富士山を戴きたい・・とは日本を明の領土として戴きたい・・という意味ではないのか?
そうに違いない・・・いや日本には九条があるから、そのようなことは、あるはずもない。
・・と、この難解な文書の解読に時間が掛かっていたのです。
そこで相談を受けた綽如上人は、以下のような返答を明に送付するよう助言したのです。
「富士山は差し上げますが、これを入れる皿を送ってください」
その後、明から皿は送られてこなかったということです。

明(1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つ。
朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。

明からの手紙は、明の建国後、しばらくして送付されたものということになる、
日本は南北朝時代であったが、国内で争っている時期ではないと南北統一がなされた。

1392年(元中9年/明徳3年)、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすることを条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)。

追記:九条があるからは冗談です。
追記:井波城は現在の瑞泉寺と隣接した土地にあって、現在は城址となっている。佐々氏の焼打ちの後は廃寺となったが、加賀前田氏に再興を許可された。写真の石垣は江戸時代に再興された瑞泉寺を囲むもので防火用に作られた。
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