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2014-05-11 09:48

「脱亜論」と「朝鮮独立党の処刑」はセットになっている

福沢諭吉の「脱亜論」は、日本はアジアを捨てて入欧しようというエリート意識の傲慢極まりない論であると・・・こういう捕らえ方をされてきた。
ご存知の方は、この社説が苦渋と憤怒と絶望の中で書かれたことを知っている。
この「脱亜論」とその前に書かれた「朝鮮独立党の処刑」はセツトで論評されるべきものだが、なぜか「脱亜論」だけ単独で論評され・・・以前は鼻持ちならない狭い考えと批判されていた。

福沢諭吉は最初は朝鮮のために努力した。
長く埋もれて居たハングルを復活させようと努力した。
朝鮮からの留学生を無償で受け入れ、慶応義塾大学で学ばせた。
問題は、その教え子である金玉均などが朝鮮の政変で本人のみならず一族郎党老人から幼児まで残酷に処刑されたことで、この国と付き合いうのは無理と悟ったのである。

「朝鮮独立党の処刑」より・・・

東西の分ちもなき小児の首に縄を掛けて之を絞め殺すとは、果して如何なる心ぞや。
尚一歩を譲り老人婦人の如きは識別の精神あれば、身に犯罪の覚えなきも我子我良人が斯る身と為りし故に、
我身も斯る災難に陥るものなりと、冤ながらも其冤を知りて死したることならんなれども、
3歳5歳の小児等は父母の手を離るるさえ泣き叫ぶの常なるに、
荒々しき獄卒の手に掛り、雪霜吹き晒らしの城門外に引摺られて、
細き首に縄を掛けらるる其時の情は如何なるべきや。
唯恐ろしき鬼に掴まれたる心地するのみにして、
其索の窄まりて呼吸の絶ゆるまでは殺さるるものとは思わず、
唯父母を慕い、兄弟を求め、父よ母よと呼び叫び、声を限りに泣入りて、
絞索漸く窄まり、泣く声漸く微にして、終に絶命したることならん。
人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。
我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり。
而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は即ち支那人なり。
我輩は千里遠隔の隣国に居り、固より其国事に縁なき者なれども、
此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。
事大党の人々は能くも忍んで此無情の事を為し、能くも忍んで其刑場に臨監したるものなり。
文明国人の情に於ては罹災の人の不幸を哀むの傍に、
又他の残忍を見て寒心戦慄するのみ。抑一国の法律は其国の主権に属するものにして、
朝鮮に如何なる法を設けて如何なる惨酷を働くも、他国人の敢て喙を容るべき限りに非ず。

我輩これを知らざるに非ずと雖ども、
凡各国人民の相互に交際するは、唯条約の公文にのみ依頼すべきものにあらず、
双方の人情相通ずるに非ざれば、修信も貿易も殆ど無益に帰するもの多きは、古今の事実に証して明に見るべし。
然るに今朝鮮国の人情を察するに、支那人と相投じて其殺気の陰険なること、実に吾々日本人の意相外に出るもの多し。故に我輩は朝鮮国に対し、条約の公文上には固より対等の交際を為して他なしと雖ども、
人情の一点に至ては、其国人が支那の覊軛を脱して文明の正道に入り、
有形無形一切の事に付き吾々と共に語りて相驚くなきの場合に至らざれば、
気の毒ながら之を同族視するを得ず。
条約面には対等して尊敬を表するも、人民の情交に於て親愛を尽すを得ざるものなり。
西洋国人が東洋諸国に対し、宗旨相異なるがために双方人民の交際、微妙の間に往々言うべからざるの故障を見ることあり。今我輩日本人民も朝鮮国に対し又支那国に対して、
自から微妙の辺に交際の困難あるを覚るは遺憾に堪えざる次第なり。

最期の部分は脱亜論と同じであるが、前半の部分は怒りと焦燥と絶望である。

・・・・朝鮮にはチャイナと同じように凌遅刑があった。
清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつで生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、
長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑である。
歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。
この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。
この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。

李氏朝鮮王朝ではこの処刑を好み、当時、これを見たスウェーデン人アーソン・グレブストは「こんな地獄がまだ、この地球の片隅に残されているとは、これは人類全体への挑戦」であると書いている。

なお、この朝鮮独立等の処刑の原因となった甲申政変の概要は以下の通り。

1884年12月4日に朝鮮で起こったクーデター。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。
当時の李氏朝鮮は、壬午事変(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、
閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。
このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、
1879年(明治12年)李東仁を日本に密入国させ、福澤諭吉や後藤象二郎をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。
日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。
開化派の狙いは、日本と同じように君主を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。
政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗のいわば「一本釣り」を計画。
外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない高宗もこの近代化政策の実行を快諾した。
金玉均らが計画したクーデター案は、同年12月に開催が予定されていた郵征局の開庁祝賀パーティーの際、
会場から少し離れたところに放火を行い、その後、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃。
朝鮮国王はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。
日本は公使館警備用の軍を派遣して朝鮮国王を保護し、
その後開化派が新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家をうちたてて、
日本の助力のもとに近代国家への道を突き進む、というものだった。
この計画のネックとなるのが清の存在だった、1884年(明治17年)12月、計画は実行に移された。
竹添進一郎在朝鮮公使など日本側の協力のもと、放火は失敗するものの概ね計画は順調に進み、
閔泳翊ら閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言した。
そして首謀者の金玉均は首相にあたる「領議政」に大院君の親戚の一人の李載元、副首相に朴泳孝、自らを大蔵大臣のポストに置く事を表明した。
しかし、閔妃は清国に密使を送り、国王と閔妃の救出を要請した。
袁世凱率いる清軍1500人が王宮を守る日本軍150人に攻め寄り、銃撃戦となった。
結局竹添進一郎日本公使は、日本公使館に火を放って長崎へ敗走し、クーデター派は敗退。
日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民、特に婦女子30余名は清兵に陵辱され虐殺された。
その有様は通州事件に似ていたという。
親清派の守旧派が臨時政権を樹立。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、
計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。
残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された。
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クーデター計画も余りに稚拙であり、
福沢が慶応義塾大学に受け入れた朝鮮人達も勉強しないで遊んでばかり居たことで、
朝鮮とチャイナは日本とは異質の国であることを深く深く認識したことが「脱亜論」に結びついたのである。
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