2012-12-29 20:35

田母神俊雄氏は団塊世代

 

団塊の世代とは何か?

昭和22年から27年にかけて年間の赤子の出生数が200万人を越える年が続いた。

これは日本の敗戦により、戦地より多くの兵隊が日本に帰還して、家庭に戻り多くの子供が生まれたからである。

昭和28年以降は出生数は徐々に減少していく。

 

昭和22年生まれの人は現在、65歳である。

昭和27年生まれの人は現在、60歳となる。

 

日本は敗戦の年の昭和20年から昭和27年4月27日まで米国の占領下にあった。

昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約の発効により日本は独立した。

団塊の世代は戦後の占領下に生まれた子供達である。

 

公職追放も財閥解体も、この期間にわたり実施された。

そして、昭和25年に朝鮮戦争が始まり、同年には自衛隊の前身である警察予備隊が出来た。

 

昭和天皇の地方行幸が続き、各地で熱狂的な歓迎を受けた。昭和21年から29年まで続いた。

 

 

 日教組はGHQの指令により結成されたが、この時代は勢力は極めて微弱であり、組織活動を始めると兵隊帰りの先生から体育館の裏に呼び出されては、やさしく諭されて?やがて転校して行った。 

 

日の丸、君が代に疑問を持つような教師は、この時代には居なかった。

学校の行事では常に日の丸、君が代が登場した。

国旗は毎朝、校庭に掲揚され、当番の生徒が朝一番で学校に行き、日の丸を揚げた。

 

日本は悪い戦争をしたと教わったことはなかった。

日本は大義のため正しい戦争をしたが、負けたのは悪かったと教わった。

今度は負けないようにすべきであると教わった。

それまでは国力を付けるのじゃ・・・と教わった。

 

 田母神俊雄氏は昭和23年生まれである。

この年は年間270万人の出生であり、団塊の世代の中心に当たる。

水島総氏も昭和24年であり、同様に団塊の世代のリーダーである。

 

平沼 赳夫氏は昭和14年、石原慎太郎氏は昭和7年であるから団塊の世代ではない。

西村幸祐氏は昭和27年生まれであり、最期の団塊世代である。

私の話した感覚では昭和28年生まれ以降は団塊の世代ではない。

この時期になると日教組の反日教育の影響をかなり受け始めている。

 

少なくとも「今度、戦争やる時は負けないようにしよう」とは学校では教わってないらしいのだ。

戦地帰りの先生が引退したからであろうか?

この世代は日本海軍の戦艦の名前や海軍・陸軍の飛行機の名前を知らない。

知っている男はオタク扱いである。

 

団塊の世代では、これらについて知らないほうが珍しい。

子供向け雑誌の特集、付録中に軍記物は必須であった。

 

 

 

昭和29年の映画。決して反戦映画ではない。

ゴジラの本多監督のもう一つの顔。

 

 

 全共闘運動>

学生運動と言うのは戦前からずっと一部の左翼学生がやっていたものである。

1960年の安保闘争は学生は一部で、闘争の主体は労働組合であった。

1968年と1969年の全共闘運動は、大学を舞台に全学スト・・・などと報道されたので、本当に全学ストライキが決議されて行われたと思っている人がいるかも知れない。

団塊の世代の大学時代が、この時代と重なるので、団塊世代=全共闘世代と思われているらしい。

 

そもそも全共闘運動なるものを推進したのは、共産党や社会党から分かれた過激派といわれる分派であり、勢力が小さいので1960年の安保闘争のように労働者を組織できなかった。

そこで、騒ぎを起こすのに都合の良い大学を狙ったということである。

それぞれの大学には自治体が組織されていた。

彼らは、これは共産党の下部組織である民主青年同盟に牛耳られているという理由で、これら既成の組織を撃破・殲滅すると称して勝手に夜中に校内に侵入して封鎖したのである。

自治体は選挙で役員を選んでおり、民青も居れば、そうでない普通の学生も居るのである。

私の先輩も役員だったが、普通のノンポリ学生でしたよ。

 

自治体の役員にとっても、普通の学生にとっても、

ある日、いつものように授業受けようと学校に行くと・・・・

なんと教室がバリケードで覆われて占拠されていた。

 

「教室に入れないんだけど・・・」

「授業はどうなるんだ」

「占拠してるのは、知らない顔ばかりだが、何処の学生だ?」

「夜中に湧いたらしい」

「ふざけるな、俺は授業を受けたい」

「授業料、返せ」

「学校が何とかしてくれるだろう」

「それまで、近くに雀荘で待つとするか」

 

・・・・このように、ある日、突然、知らない連中に校舎を占拠されただけなのだ。

 

学校は困って、退去のお願いをする。

「邪魔なんですけど」

「どいてけれ」

「一般の学生と教師が困ってるので、占拠は他でやってけろ」

 

でも・・返事は・・・「我々はあ、戦うぞ・・・世界革命だど」とアジ演説。いくら聞いても意味不明。

 

それで機動隊に頼んで、意味不明な連中を排除。

この様子がテレビ中継される。

ところが連中は頑強に抵抗して、機動隊員に死者も出る。

 

かなり危ない連中と思ったのか、大学側は機動隊が「学生らしき知らない連中」を排除した後は、再占拠されないよう大学をロックアウト。誰も校内に入れないようにした。

 

 

で・・・・大多数の普通の学生は・・・。

 

「教室に入れないんだけど・・・」

「授業はどうなるんだ」

 「授業料、返せ」

「学校はいつまでロックアウトする気かね」

「近くに雀荘で待つとするか」

 

こうして、酒と雀荘の日々が始まった。

 

これが全共闘運動の実態。

大多数の団塊世代は腐れ左翼運動の被害者なの。

 

しかし、少人数しか居ないのを、大きな勢力に見せるのは、今も昔も変わらないマスコミの基本的方針ということです。

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コメント

No title

団塊の方々が小学校に入ったのが昭和28年から35年、大学に入ったのが昭和40年から47年ですか。後半になれば文字通り60年安保と70年安保の間ですよね。

こいつらのうちの活動家が、学校あたりに入り込んだのが45年から52年くらいでしょうか。小生が小学校に入ったのは39年、卒業が46年ですからちょうど入り込んできた時ですね。小5の時の教師が日教組でした。真面目ではあったが結構浮いてた人でした。

その後の公立学校のことは知りませんが、まともな「運動」ができず子供を洗脳することに走ったのでしょうね。ただそれでもそんなところに走るのは少数派だったはずです。

公立学校側も馬鹿じゃない。千葉では運動家が集まる学校が決まってました。と言うより意図的に集めていたようです。そして組合活動家上がりの教頭校長がいる学校に集めたようでした。だいたいそれも地域の底辺校です。

本当に吹き溜まりのような学校がありました。塾の教師をやりそういう学校の生徒達を見ましたが、授業がいい加減、テストもいい加減、内申書もいい加減、酷いものでしたね。それでも良かったのですよ。能力のある生徒は私立に抜け吹き溜まりは公立4http://www.iza.ne.jp/izaword/word/%25E6%25B5%2581/" class="keyword">流高に行く。それなりにhttp://www.iza.ne.jp/izaword/word/%25E3%2583%2590%25E3%2583%25A9%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B9/" class="keyword">バランスは取れておりました。

しかし連中が多数派となった県は大変だったでしょうね。今にして思うと団塊の中で大きな差があるのは35年から45年くらいの日本を見て自分の頭で考えたか、誰かの言うことを真に受けたかの差だったのではないでしょうか。

結局利口な馬鹿が引っかかったのでしょう。そして世の中で馬鹿な働き者ほど使えぬ連中はありません。そいつらが社会の指導層になったのが今でしょうが、人間の質的差というものは時代を下るたびに大きくなってるのではないかという気が致します。
  1. 2012-12-31 00:25
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  3. kazk #79D/WHSg
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