2014-03-09 17:32

キエフの大門

キエフの大門は黄金の門 と呼ばれた。

キエフ大公国時代のキエフの中央門である。

 

1037年にヤロスラウ賢公がキエフを開発し、町の境界線に土塁を盛り、その上に城壁を作らせ、西へ向かう入り口に大門を構築した。

この門の名称は、当時の欧州にとって文化の源であったビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスの門にちなんで「黄金の門」と呼ばれた。

 

キエフの黄金の門は土塁の間に大きな赤色の煉瓦と石で造られ、塔のように聳え立った。

 

門の入り口の広さは約7.5mで、壁の高さは9.5m以上であった。

キエフはキリスト教の町であることを見せるために、門上に受胎告知教会が造られた。

門内はモザイクと壁画によって装飾された。

 

1240年に黄金の門は、モンゴル帝国の軍勢によって破壊され、それ以後再建されることがなかった。

 

18世紀に門の跡は完全に土に埋まってしまったが、1832年のK・ロフヴィーツィクィイは発掘調査を行い、史跡として保存した。

 

ムソルグスキーの「展覧会の絵」の終曲は、キエフの大門である。

 

大門は既にモンゴルにより破壊された後、長久の時が過ぎていた。

 

 友人の画家ハルトマンの遺作の展覧会で、ムソルグスキーが見たというキエフの大門の絵は以下のものといわれている。 

 

 

 

 このキエフの大門は1982年に復元された。

 

 

表門側。

 

 

裏門側

 

 

門の内部

 

場所はキエフの大門のあった場所である。

横に付いている木造の建物はなんじゃらほい?


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コメント

No title

 たしかキエフはかつて城塞都市であり、この門はその入口だったとのことで、コンスタンチノープルの門を真似て黄金の門と言われたはずです。表門側に草が見えますがこれは土塁の跡だと思います。つまり街全体が、土塁で覆われてたんですね。
 ハルトマンはこの絵を想像図としかいたらしい。何しろその時は単なる遺跡に過ぎなかったわけですから。
 ロシアのかつての町は、他の欧州の国々と違いかなり木材が使われたりします。おそらく門の創建当時は土塁の上の建物は皆木だったのだろうと思います。
 詳しい歴史はよく知りませんが、キエフはhttp://www.iza.ne.jp/izaword/word/%25E3%2583%25AD%25E3%2582%25B7%25E3%2582%25A2%25E6%25AD%25A3%25E6%2595%2599/" class="keyword">ロシア正教会のかつての拠点でしたから、http://www.iza.ne.jp/izaword/word/%25E3%2583%25AD%25E3%2582%25B7%25E3%2582%25A2/" class="keyword">ロシア人にとっては格別の思いもあるようですね。
 因みにロシアの国営放送の開始音楽(インターバルシグナル)はキエフの大門のオルゴールです。何でウクライナの連中は文句つけんのだろうか、昔から不思議です。
  1. 2011-12-23 13:24
  2. URL
  3. kazk #79D/WHSg
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No title

後ひとつ思い出しました。
展覧会の絵には幾つかの編曲版がありオーケストラ版ではストコフスキーが有名です。
きいてみっと、え、っていうくらい違います。でもラベルの名人ぶりがそれからもよく分かります。
  1. 2011-12-23 13:36
  2. URL
  3. kazk #79D/WHSg
  4. 編集

No title

最近木造の部分は改築したんですかね?
新しいですね。
僕が訪れた7年ほど前は木造構造部分は黒く変色してました。
前面の斜めの斜面にも芝生など貼って無かった様な?
この木造部分は何で付いてるのや?
と聞いたんですが言葉が通じなくてわかりませんでした。
何でこんな場違いなものをくっつけたんですかね?
見張り砦?



  1. 2011-12-24 06:18
  2. URL
  3. sonoraone-3 #79D/WHSg
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No title

To sonoraone-3さん
>最近木造の部分は改築したんですかね?
>新しいですね。
>僕が訪れた7年ほど前は木造構造部分は黒く変色してました。
>前面の斜めの斜面にも芝生など貼って無かった様な?
>この木造部分は何で付いてるのや?
>と聞いたんですが言葉が通じなくてわかりませんでした。
>何でこんな場違いなものをくっつけたんですかね?
>見張り砦?

私なりの推理。
ここは土塁の上ではなく、土塁の間を切って、そこに門を造った。
すなわち、木造の建物の横は、今は空いているが、当時は左右とも土塁であった。
門は、合言葉を言わないと開けなかった。

すると、この木造の建物は、敵を攻撃するためのもので、
前面の斜面は岩を落としたり、油を流したりした。
上部からは、矢が飛んできた。
というのではないでしょうか。

日本の城の武者返しみたいなものでは・・・
  1. 2011-12-24 12:19
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  3. yuyuu #79D/WHSg
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