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2016-12-22 07:23

CAD/CAM談義

CAD(computer-aided design)とはコンピュータ支援設計。
コンピュータを用いて設計をすること。
そのためのシステムがCADシステムである。
人の手によって行われていた設計作業をコンピュータによって支援し、効率を高めるのが狙い。

昨日、町内の元大手企業の設計部門に居た老人と・・・あれが導入されたのは、何時頃だったけかなあ・・・という話をした。
システムとしては1960年頃に開発されている。
しかし、実際に職場に導入されたのは1985年頃である。
私など団塊世代が30代の後半に入りかけた頃。
対話した町内の老人は40代の半ばであり、CAD導入を推進した。
彼は現在70歳代である。

こうした業務のIT化については、実は中小企業が先行した。
その理由は簡単で、企業規模が小さいので社内への導入が簡単だkらである。
確かに高額なシステムであるが、駄目ならまた変えれば良い・・というノリで、ホイホイ導入。
・・・・・ところが大手は、反対する人が多くて、意思がまとまらず。
全社導入ともなれば膨大な費用が掛かり、かつ、間違って下手なシステムを選べば終わり(簡単には替えられない)。
なので、どうしても慎重になる。

その結果、中小企業でCAD推進は当時、30代の団塊世代。
大手企業では当時40代の戦中に生まれた世代となる。
私などは30代の後半に取締役となったが、
これはIT推進により経費の大幅な削減が評価されたから。
最初に自分で見積もって見て驚いた。
凄い経費節約と効率化が達成される。
やってみて、確かにその通りとなった。
日本のIT革命を推進したのは団塊世代及び戦中派なのである。

1980年代後半から1990年代初頭にかけてのMS-DOS地獄が、
ウインドウ95の登場でパッと窓が開いて、その後は急速に普及していく。

しかし・・・・我々は効率化に夢中になり、あの件については分っていたけど甘く見ていた。

CADは製図作業や図面作成が正確に処理できる。編集が容易。
繰り返し図形をコピーで作れるので効率的に作図可能。また、類似図面の作成が容易。
データ化したものを別の製品に再使用が容易。
ソフト間の互換性があるため・・・社内・関係会社で共有が可能。
そこで留まらず、社外・・・国外にまで流出してしまうのである。

こうして日本の周辺に図面の闇市ができました。
その闇市で購入してきた図面を、適当に組み合わせれば・・・設計図ができちゃうんですねえ。
こうして、日本経済新聞は「日本は負けた」「追い越された」と中国・韓国を褒め称える・・・一時代がありました。

しかし、それも終わりつつあります。
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2016-08-16 20:40

団塊世代が学校で習った終戦の詔と昭和の刀狩り

8月10日は終戦の日である。以前にも書いたと思うが、8月10日は夏休みの最中なので、その前の東京のお盆(新盆)あたりに、学校では「終戦の詔勅」について習った。
「その日、先生は皇居前で切腹するつもりで、日本刀を持って出かけたのだが、陛下のお言葉を聞くうちに涙がどんどん出てきて、最後の言葉を聞いて、死ぬのは後回しにして、ここで頑張らないと申し訳ないと、そのまま帰って来たのだ。だから、その時にどういう話を聞いたかを皆に話しておかなければならないと思ってる」。

その後の話はいつもの通り。
わが国が宣戦布告したのは、帝国の独立を保つためであり、アジアの安定を図るためである。
欧米諸国のように、他国の主権を排して領土を侵すごときは志にあらず。
しかし敵は原子爆弾のような非人間的な兵器を使い無辜の民まで殺傷する暴挙に出た。、
わが軍がこれに対抗すれば、民族の滅亡のみならず人類の滅亡に至るまでの戦争になる。
そこで、皆の気持ちは分るが、耐えがたきを耐え。忍びがらきを忍びて、
連中のポツダム宣言を受け入れることにした。

無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ
尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス
延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

そして全国民が心を合わせて国体を維持できれば、
復興の道は厳しいと思うが、これを乗り切っていけるであろう。

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

先生は、この最後の部分が重要である・・と強調。
今は臥薪嘗胆の時期であり、やがて日本の戦争の意味が理解される。
アジア、アフリカで独立運動が起こり西欧諸国の植民地支配は終わったではないか?
朝鮮戦争の後、マッカーサーは言うことが変わり、
日本の戦争は自衛戦争であったと米国議会で証言したではないか?

・・・・団塊世代は以上ような授業を受けたが、今回、指摘しておきたいのは日本刀である。

豊臣秀吉の時代に刀狩りが行われた。
その後、明治初期に廃刀令があったが、民間では終戦に至るまでは、私物として日本刀を保持していたのである。
ですから8月10日には日本刀を持って皇居に切腹するつもりで駆けつけたのである。
この先生は居合の名人で、その後も許可を取って日本刀を所有していたが、
他の先生は米軍の刀狩に合い、大切な刀を没収されたようで、
授業でも、以前、保有していた日本刀の思い出話をしていた教師が今、覚えているだけで3人は居る。

ポツダム宣言によって日本は無条件降伏をした。
この中に日本軍の持っている武器全てを連合国側に引き渡すと言う一文があり、その武器の中に日本刀が入っていた。
彼らは日本刀に対して脅威を持っていた。
軍の持っている日本刀だけでなく、民間人の持っている日本刀も含まれていた。
進駐軍は全力をあげて刀狩りを行ったのである。
この民間人の武装解除の中で、朝鮮進駐軍が日本人の子供を襲ったわけである。

さて、日本刀を持つということは、その殺傷能力の高さから
保有者には心の強さと高い精神性を要求される。
日本刀を保有していた先生達は外見では細身に見えるが、
体は鍛え抜かれており、下腹の出たような軟弱は居なかった。
怒る時も全く感情的にならず、気迫が凄い。
弛んでいると、気迫が体の中に入ってきて、身が引き締まるのがわかる。
そして、かなり抑制して振り下ろされる拳骨が実に痛いのである。

そして、当時は文武両道のバランスが重視されていた。
文を極めるために武が犠牲になるなら、文はたいがいのところで止めておかねばならない。
その逆も然りである。

このバランスが壊れたのが受験勉強が始まる昭和27年生まれ以降の世代である。

さて、以上のような子供時代の事を思い出したのは、青山氏の動画を見たからである。




ここで日本刀について触れられているが、日本刀を保有する人間の気迫と精神性が
すでに日本人の心の中から失われているのではないかと心配ではある。



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2016-04-15 10:07

梯子酒

私が実業界に出た頃、地方出張すると、新幹線なるものがなかったので、必ずと泊まり。
泊まると必ず地元企業の社員と「飲みに行こう」となり、飲みに行くと、ほぼ100%が梯子酒である。
梯子酒は3軒というのが普通で、3軒の跡に静かなスナックとか倶楽部になる。
なぜ、梯子になるかは「浮き世の義理つてもんです」。
1軒に集中してしまうと、そこだけが潤うのはまずい。だから3軒廻る・・・。
「それぞれの店に、お客さんがおりますので、営業活動も兼ね」という話を聞いた。
店の方も回転が良いというメリットがある。
客単価は安くても回転率で勝負である。

さて、東京ではなかなか3軒の梯子酒は難しいが、下町では全く地方と変わらない梯子酒の伝統がある。
最近は若い世代に梯子酒を知ってもらおうと商店街協賛の梯子酒大会などもやつている。

私らのような瘋癲老人は今でも梯子酒が普通です。
だいたい4時頃から1軒目に入って1軒に60分、3件廻って7時には解散。
1軒あたりの単価は1000円程度です。東京にもあるんですよ、そういう地域が。
それぞれの店の混雑時を熟知し、空いている時に入り、混んで来たら去る。店主喜ぶ。

これが、梯子酒の秘訣です。
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2015-11-04 21:11

SEALDsの予備軍?

突然、体育館内にサイレンが鳴った。
それも、今時のサイレンではなくて、子供の頃に良く聞いた「うううううううう」というサイレン。
そして、東京大空襲の映像。

近所の中学で生徒が人権・平和・男女共同参画学習の成果を発表するというので、
案内状が来たので行ってみたら最初から魂消た。
来賓席に案内されたが、誰も居なかった。
変な老人がやってきたというので、驚いているようであった。

最近の中学生はパワーポイントを使い、プレゼンするようだ。
パワーポイントに動画を入れて、効果的に使っている。

大空襲の次は広島と長崎の原爆である。
これも、動画つき。

生徒の説明は
①東京大空襲の被害状況
②広島・長崎の原爆投下と被害状況
③自分が平和学習で広島を訪問した時の感想
④安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから
このようなストーリィでした。

実は国際法違反の東京大虐殺、広島大虐殺、長崎大虐殺であった・・などの話はありません。

「人権・平和学習」というのは、やらなくてはいけないそうです。
この平和学習の発表の後に「差別にだ」学習の発表もありました。
今時の中学生は、このような授業を受けているのですね。

ネットの世界では団塊の世代が「日本は悪かった二ダ」という戦後教育を一番、集中的に受けたということになっておりますが、
それは、我々、団塊世代ではなくて、現在の児童と生徒でしょう。

地域によって差があるとは思いますが、我々は「日本は悪いことをした」等の教育は受けておりません。
当時の恩師に聞くと、日本が戦争に負けるかも知れないと感じ始めた時期から、
日本が占領されたら、今まで通りの教育はできなくなる。
欧米が正しかったという教育になるのは、目に見えていたから、
そうした教育・洗脳から子供達を守ろうと先生同士で話し合って居たとのこと。

一部の「進歩的文化人」は、裏切者、投降主義者であるが、多くの教師は、
我々が目の黒いうちは「アカ共」に教室を渡さないと決意していたと言います。

この話が無かったことになっているのは、こうした進歩的でない先生が引退した後に、
1970年代から、ようやく戦後教育が始まった事を隠すためでしょう。

戦後には、彼らが隠したい事件が多数ありますから。
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2015-11-01 13:35

「パスポート お代わり老人達」との英語教育に関する対話

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話題のThe true size of ... の地図。原寸で比較すると日本の広さがわかる。
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昔は欧州に仕事に行けば、あっという間にパスポートのVISASのページがスタンプで埋まってしまったものだ。
入国で1つ、出国で1つ押すからね。ちょっと移動するだけで入出国。
これでは3年は持たないんじゃないかな。
埋まってしまい・・もう押すとこないと外務省に頼んでパスポートをお代わりするしかない。
お代わりは新規申請ではないので、ノートの実費を取られるだけ。
でも、既に埋まったパスポートと新しいのを2冊をあわせて持ち歩き、
2冊そろえて出入国管理官に提出しないといけません。

しかし、神聖ローマ帝国(ユーロ)が復活してから、入国審査も出国審査もそれぞれ1回で良くなったから、事情はすっかり変わった。両替も帝国をを出るときと入るとき2回で済むから助かる。

わが町内には、パスポートをお代わりする程、世界で活躍した老人が集まっており、
町内のサイゼリヤでワインを飲みながら定例会を開催している。
パスポートをお代わり老人達は多くは高卒である。
受験戦争なるものが始まる前の古き良き日本では、
現場の仕事は中卒・高卒、管理の仕事は大卒と明確に分かれていたものである。

英語を始め語学力については、大卒より高卒の現場担当者の方が遥かに上である。
「わしらは仕事(プロジェクト)が完成するまで帰れないのですから」
「仕事を完成しようとすれば、現地の人々とコミュニケーションして、やる気にさせて、一緒にやるしかないですから」
「大卒の連中は時々、会議とか監督に来るだけで、直ぐに帰国するから上達するわけないでしょ」

先日、この老人達と地元の小学校の参観会に行き、さらに中学校にも行って来た。
彼らはあまりに浮き世離れしている現在の教育にかなり驚いたようである。

老人達は小学校等での早期の英語教育には「あまり意味が無いのでは」と否定的。
日本の会社で、日本の中の日本人だけの会議に英語を使うというのは「意味わからん」と言っている。
ついに文部省の中でも、仕事中は英語だけ使う部署が出来たと聞いて「あまりにもお馬鹿さん」と叫ぶ・・。

○主な現場サイドの意見

最も有効な手段は現地で図を描きながら説明すること。
「実物、実物の分解したもの、ポンチ絵、図面、設計図&配線図」・・・これが国際語であり、英語は国際語ではない。
誰にでも英語が通じる国は英国ぐらいしかない。
英国の旧植民地であっても、エリート層には英語が通じるが現場の作業員に通じるとは期待できない。
(結局、我々が仕事に中で現地語を学ぶしかない)
もちろん、米国であっても英語が通じるとは限らない。

図面は万国共通語であり、図面を使って説明する能力・・・実践的な理解力を身につけさせるころが重要。

○営業・管理サイドの意見
一方、大卒の営業・管理担当者は・・・

「カタコト英語で十分です」という本があったでしょ。
パーティに出て、下手な英語でジョークを飛ばせる程度で十分。
店舗や工場へのロードは、この程度で十分。
商談から契約に至る本物のビジネス分野は、素人は危険なので、
相互にプロの通訳を立てて商談するし、すべて文書化してから相互に確認する。
口約束とかはありえないので、通訳のプロでないビジネスマンには高度な英語能力は危険だし不要。

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2015-07-16 21:25

戦後レジームではなく1970年レジームだが



そう言えば思い出しました。
高辻 正己(1910年1月19日 - 1997年5月20日)
1964年から1972年にかけて第1次佐藤内閣~第3次佐藤内閣まで内閣法制局長官を務めた。
1972年7月、佐藤首相の退陣とともに内閣法制局長官を辞任。
1973年から1980年まで最高裁判所判事を務めた。

このおっさんが自衛隊を最小限度の軍備に留める工作をやったのでしょう。
戦後から1960年の前半までは「戦争の放棄と言っても自衛権を放棄するものではなく、座して死を待つ事は意味しない」と学校でも教わりましたが。
「先生、それは当然のことだよね」と誰も否定しなかった。
明らかに敵が攻めてくると分かれれば先制攻撃も許される。
これは国会答弁のもあったと思う。
「当然だよね」と誰も疑問に思わなかった。

1954(昭和29)鳩山内閣
大村防衛庁長官は衆・予算委答弁
「憲法は、自衛権を否定していない。自衛権は、国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。憲法はこれを否定していない。したがって、現行憲法の下で、わが国が、自衛権を持っていることは、極めて明白である」
「憲法は、戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。戦争と武力の威嚇に関連して武力の行使が放棄されるのは、『国際紛争を解決する手段としては』ということである。他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」。

自衛隊の合憲性について、「憲法第9条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。したがって、自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつ、その目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 
1956(昭和31) 鳩山首相答弁
「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、例えば、誘導弾等による攻撃を防御するのに、他の手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」。

1960年安保までは、このような常識的な世界観であったのが、おかしくなりはじめたのが、1960年の日米安保条約から。
米国が守ってくれるからイイヤになりかけ、1965年から徐々に日本人が腑抜けとなり・・・・・・・。

戦後レジームというものは、実は1970年レジームであり、これが現在まで続いている。
だから1977年に横田めぐみちゃんが北朝鮮に拉致されたのである。

北朝鮮による日本人拉致事件は、1970年代から1980年代にかけて、北朝鮮 の工作員などにより、多数の日本人が極秘裏に北朝鮮に拉致された国際犯罪事件。
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2015-06-22 18:27

父の開襟シャツ

 日本のサラリーマンが夏でもネクタイ、背広で仕事をするようになったのって、1960年代末ぐらいからじゃないですか?

 ワタシは中学生だった60年代末ごろまでは、父が夏は開襟シャツで仕事に行ったのを覚えています。 お中元にも開襟シャツが贈られて来たのを覚えています。 父は財閥系の会社に勤めていたので、服装にはきわめて保守的でしたから、開襟シャツは当時の夏のサラリーマンの服装としては、ごく普通だったと思うのですが・・・・。

 父が夏でも背広にネクタイで出勤するようになったのは、60年代末以降でした。 この頃父は札幌に転勤していたので、これでも全然問題なかったのですが、しかし本州では地獄でしょう?


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よもぎねこ殿のお父様の思い出です。

私は、よもぎねこさんより若干、年が上ですが、昭和20年代から30年代初頭の父の職場の風景を良く覚えています。
当時は通勤に1時間掛かるなんて話は無くて、歩いて20分程度の会社に徒歩で出勤でした。
徒歩か自転車の選択であり、自家用車などは、ずっと後の話です。
父は徒歩10分程度の会社に通っていました。
ですから帰宅は早くて、夏は空が明るいうちに帰ってきました。
子供とキャッチボールの練習が出来る時間です。
そして7時頃に一家団欒で夕食を食べて、テレビ番組の「ハリマオ」を見て、
8時過ぎには近所の人達が野球やプロレスを、我が家の居間に見に来ておりました。
私の小学校も近いので、午前中で終わりの低学年の頃は帰宅してから、父の会社に弁当を届けました。
夏の日、事務所に入ると天井に扇風機がまわっていて、その下では全員、開襟シャツで仕事をしていました。
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神戸開襟という会社のホームページに「開襟シャツの歴史」という記事が出ています。
大変、詳しいので一部を紹介します。

History of Open-necked Shirt

「アロハシャツ」という開襟シャツ

世界で最も有名な開襟シャツにハワイのアロハシャツがありますが、その詳細な起源は明らかではありません。
アロハシャツは19世紀終盤~20世紀初頭に「パラカ」と呼ばれるヨーロッパの船員が着ていた“上着”という意味の開襟シャツがルーツだと言われています。
20世紀に入るとそのシャツがハワイの労働者の作業着(プランテーションの重労働に耐えうるデニム地で青と白の格子柄)として定着し、 日本から渡った移民の間でもそれが元々日本にあった藍色の木綿絣(かすり)に似ていたからでしょうか、大変評判になりました。
後に彼らは持参していた着物や反物を利用し開襟シャツを作ったのが今日よく見られるあのカラフルなアロハシャツの始まりだと言うのが一般的な起源説です。
一方、アロハシャツは19世紀に「米国本土からの開拓移民が持ち込んだ開襟シャツがルーツとする」や「シャツの裾をスクエアにし、パンツの外に出すスタイルを考案したのは、 かのデューク・カハナモクであった」などの諸説があり、どれが絶対に正しいストーリーであるのかは断定できないのが現状です。
あくまでも推測の域を出ませんが、やはりアロハシャツの場合欧米の船乗りの作業服か海軍服が起源と考えるのが自然なことのように思えます。

開襟シャツの発祥は日本だった!?

日本の開襟シャツもハワイのアロハシャツと同様にその詳細な歴史は明らかではありません。
しかし、大変興味深い開襟シャツの発祥説に「日本がそのルーツ」だとするのがあります。
「大正末期から昭和初期にかけて日本人の洋装文化もかなり一般的になり、1934~35(昭和9~10)年頃から、高温多湿の日本の夏に適した開襟シャツが大流行した」という記録があります。
また、「その開襟シャツを発明し、着用を提唱したのは戸田正三 (1885-1961)という衛生学者(京都帝国大学教授→金沢大学初代学長:兵庫県出身)であった」と多くの資料がそう記しています。

かつては夏の国民的シャツだった開襟シャツ

そのように、1935年頃~1960年代中頃までの長期に渡って流行した我国の開襟シャツは、老若男女を問わず多くの国民の夏服として普通に(今日のハワイのアロハシャツのように)着られていました。 確かに昭和初~中期に撮影された写真やその時代を背景にした映画やドラマの中では、男性の多くは白い綿や麻の開襟シャツを着て、 パナマやボーター(カンカン帽)といった帽子を被っている姿がよく見られます。 また一部スーツを着ている人の多くは「生成りの麻生地の仕立て」で、白い開襟シャツの衿を上着のラペルの上に添うように、まさにオープンカラーで着ているのが見て取れます。
一方ご婦人達も半袖開襟ブラウスにスカート、子供たちも開襟シャツに麦わら帽を被ったそんな出で立ちは日本の夏の美しく涼しげな風物詩の一つになっていたように見えます。
中年以上の年齢の方々の中には、「祖父さんや親父がよく着ていた」とか、「自分も子供の頃に着ていた」とか懐かしく思われる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

エアコンの普及によって衰退していった開襟シャツ

過去に一世を風靡した開襟シャツですが、1960年代中頃から徐々に着る人が少なくなっていきました。
主な理由は、戦後の高度経済成長と共に職場に冷房設備(当時はクーラーと呼んでいた)が導入され、また通勤電車やバスにまで冷房化が進んでいったので、 オフィスで仕事をする男性達からスーツやネクタイを夏でも着用することが習慣になっていったからでした。
当時、一流企業のサラリーマンにおいては、真夏に冷房の効いたオフィスで仕事をすることは一種のステータスで、欧米のビジネスマンへ右へ習えと背広を着る習慣が広がっていったのでした。
後に取引のある中小企業の人々にまでその影響が及び、うだるような暑さの夏の環境にもかかわらず、男性社会は「スーツにネクタイという悪しき習慣」を継続し続けてきたのです。
またカジュアルのシーンにおいても、その頃からボタン・ダウンシャツ、ポロシャツ、Tシャツといったスタイルの半袖シャツが市場に出回り、特に若い人達の中で人気を得たのも開襟シャツが衰退していった原因の一つでした。
そのように、一度は日本の社会を席巻した開襟シャツですが、現在ではほとんど見られなくなり、学生服か作業服、またカジュアルシャツの一部としてしか着られていないのが現状です。
残念なことですが、服飾文化の分野においても特に戦後から我々日本人は、自国の文化、環境、歴史に適したものを自らデザインし着用しようとする能動的な行動より、欧米の流行をただ信仰し模倣することがより価値のあることのように考えてきたと言えるのではないでしょうか。
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貧しい時代ではありましたが、昭和20年代から30年代前半は、高度成長期前の清々として豊饒な時代でした。
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2015-06-12 22:10

ハリマオの正体

60年安保闘争で国会が反日勢力に包囲され、岸信介が孤独な戦いをしていた頃、
日本の良い子はテレビで「ハリマオ」を見ていたのである。

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この今時の韓国人が発狂する旗が青空に映え。

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帝国海軍の制服を着た・・・・・・・

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この方は・・・・・日本海軍中尉大友道夫
・・・・・ターバンとサングラスを外したハリマオの正体は彼であった。
後方に控えるのが、日本海軍一等兵曹、山田松五郎・・・・ドンゴロスの松。

ハリマオの第三部の終わりに、このシーンがある。

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日本から大友道夫を探しにインドネシアにやってきた婚約者の秋江。
彼女はハリマオを追いかけて「貴方は大友道夫ではないか?」と聞くのだが、ハリマオは「知らね」と誤魔化す。
いくらなんでも婚約者なら分かろうものを・・・と思うのだが???
この「追っかけ」で彼女が危険な目に合うシーンが続いたので、ここらでハリマオは正体を伝えることにしたのである。

正体が分かったので、ハリマオは終わりかと思ったら、まだ続くのである。
「まだ、やらねばならない任務がある」からだ。
白人及びシナ人からの大東亜の解放である。

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それは日本海軍の使命ということだ。

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少年向けテレビドラマ「ハリマオ」の中で、現地人を奴隷のように支配るのが西欧人。
その西欧人に協力し、悪だくみするのがシナ人である。
西欧が植民地を支配にする時にシナ人を使ったため、シナ人は世界各地に分布している、

そして、シナ人は西欧人の言うことを忠実に守るようなフリをしていたので、西欧人は見事に騙された。
シナ人が日本を悪役に仕立てる工作をしたので、日本は孤立化して行った。
情報戦に敗れたのである。

前にも書いたが、ドラマの中でシナ人との言葉が頻繁に使われる。
この時代は言葉の自己規制(例の不適切な表現)はなかったのだ(始まったのは1970年代の後半)。

最近になり、米国の中国専門家が、シナ人に騙されていたことを知ったようである。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4365?page=1

書いたのは米国の中国専門家。

問題は、中国にではなく我々にある。60年間、西側は、中国を、ソ連への潜在的抑え役、あるいは、米国の貿易・投資相手といった、自らの利益の観点から見てきた。
また、民主主義への準備が出来ている国、世界的調和を求める儒教文明の国といった、心地よいイメージで中国を見てきた
その一方、中国でナショナリズムが高まっていることを警告する文書、行動、宣言を無視してきた。我々は、希望的観測に反する声に耳を傾けて来なかったので、中国が何を望んでいるのか、分からずにいる。
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この騙しのテクニックは、戦前からのもので、蒋介石夫人の米国議会での日本非難の証言まで遡る。

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ルーズベルトと蒋介石夫人


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2015-04-25 12:00

ウルトラセブンとシューマンのピアノ協奏曲

ロベルト・シューマンはピアノ協奏曲を1曲だけ残している。
このイ短調のピアノ協奏曲は好きな曲で、もったいぶらず最初からピアノが出てくる。
ショパンの2番のピアノ協奏曲も、旋律は素晴らしいのであるが、なかなかピアノが出てこない。
それでも、べトちゃんやブラちゃんのような交響曲作曲家でオーケストレーションが上手なら良いのですけど・・・。

シューマンはそれまでにも何曲かのピアノ協奏曲にチャレンジしたが、未完に終わった。
唯一のピアノ協奏曲は1846年1月1日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで、ロベルトの妻クララ・シューマンの独奏、フェルディナント・ヒラー指揮で初演されている。

ところが、この名曲はある男の告白に使われているのである。



びっりしたのはアンヌ隊員ではなくクララ・シューマンであった。




日本は、我々自らの手で守らなければならないんだ。


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2015-04-24 22:40

ハリマオにおける「太郎」の考察

以前、書いた「ハリマオ」の記事。

http://yuyuu2013.blog.fc2.com/blog-entry-4094.html

続いて拳銃少年の記事。

http://yuyuu2013.blog.fc2.com/blog-entry-4095.html

私は、太郎少年の記憶があるが、何故か私の覚ている太郎と違うと思っていたのです。

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これが最初に登場した太郎少年で、演じたのは町田泉。
小学校6年生か中学一年生での出演である。
この町田君は「ジャガーの眼」にも出ていたらしいが記憶にない。

ハリマオ第一部の「魔の城」には出演していたが、第二部の「ソロ川の逆襲」には登場していない。
テレビ出演と学業と両立ができないと言う理由で止めてしまったということだ。

しかし、「ソロ河の逆襲」の最終場面で再び太郎少年が登場し、第三部の「アラフラ海の真珠」では大活躍である。
その太郎少年は・・・・

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町田君とは別の人物のようである。

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結構背が高くて、大人と争っても負けない。

この方を・・・・どなたと心得るか?

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この方は・・・実写版鉄人28号の金田正太郎少年ではないか?
鉄人28号の正太郎君は、日本初の少年探偵であるから「敵に渡すな大事なリモコン」だけではなく、拳銃だって持っている。
ハリマオの太郎に変身しても何の問題もなかった。
12歳にて「鉄人28号」では内藤正一の芸名で正太郎を、ハリマオでは内藤雅行として太郎少年を演じた。

しかし、ハリマオも第三部になると中国人との抗争になり、アジアを支配していた白人は悪役では登場しなくなった。
大東亜戦争の肯定は許さんと圧力でも掛かったのか?
以下のような第一部のオープニングは中止された。

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動画もどうぞ。

https://youtu.be/oAVypT-G2QE




  1. 団塊世代の真実
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2014-10-24 22:17

「夜のキャンパスの恐怖」の思い出

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この西村さんのツイートの「感覚」は、私は昔から持っていた。
しかし、これは、ある夜の恐怖の記憶から来るものだ。

高校の三年生になると、進学希望の生徒は、自分の受験したい大学を訪問する。
高校の先輩を頼り、学内を案内してもらい、さらに授業内容、教授の評判などの話を聞く。
私も1968年に高校三年生になったので、春から志望大学を訪問した。
先輩たちは概ね親切に、如才なく対応してくれた。
しかし、中には変な先輩も居て、雑談ばかりで校内を案内してくれない。
「こりゃ、あかん」と帰ろうとすると、ようやく先輩は「案内を忘れたわ」と気がつく。
「また来ますから」
「いや、今から行こう」
「夜ですから」
「大学は自由なんだよ。夜でも開いているから」
「本当に大丈夫でしょうか」
「大丈夫に決まってるだろう」
ところが・・・大学構内に入るとなんか変なのである。
「何でこんなに人が居るんだ」と先輩が呟く。
校内道路に一定の距離を置いて人がぬっと立っている。
そばを通ると殺気を感じるぐらいの迫力で体格が良い。
「あれ・・見たことない連中だ」
「そうなんですか」
「学生じゃないみたいだな」
「え」
「帰ろう。おまえ、彼らの顔を見るなよ」
「え」
先輩は早足で出口に向かう。
すると連中が我々を指さし騒ぎ出して何か言っている。
何を言っているのだろう。日本語じゃないみたいだ。理解できない。
その後、先輩と私は逃げるように校門を出た。
「怖かったな」
「何でしょうね、連中は」
「こんなことは初めてだ」
翌日か、翌々日か・・・その大学は学生にバリケード封鎖されたとニュースが流れた。
しかし、学生かどうかは覆面をしているので分からない。

あの覆面は警察・公安・機動隊対策だけではなく、本学の学生ではないことを隠すことにあると思った。
その後、先輩は外人部隊に大学を占拠され、酒と薔薇と麻雀の日々となった。
  1. 団塊世代の真実
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2014-09-03 15:54

十五でねえやは嫁に行き、お里の便りも絶え果てた




本日は高齢者の施設にボランティアに行き、「赤とんぼ」を歌ってきた。
いやあ、素晴らしい歌ですね。
三木露風と山田耕作の黄金コンビですから。

この歌は、もう小学校では歌わないらしいです。
もう、15歳でねえやは嫁に行かないから?
それだけでもないようです。

夕焼け子焼けの赤トンボ。
おわれて見たのは何時の日か。

まず、この「おわれてみた」を「追われてみた」と思っちやうんですね。
赤トンボが子供に追いかけられる・・・。
実はそうではなく「負われて見た」なんです。
誰かに負われて、夕焼けの時に、赤トンボを見たのです。
誰に負われたのか?
それは3番の歌詞の「ねえや」なんですね。
私のような団塊の世代なら、「ねえや」と言えば、お手伝いの「ねえや」であると分かるのですが、
今の小学生だと「ねえや」は姉さんだと思いかねない。
そうすると「お里の便りも絶えはてた」の意味がわからない。
「ねえや」が姉だとすると、里は自分の家ではないか?
自分の家に便りは出さんわい。
絶え果てたってなんじゃらほい。

この歌は自分の子守をしてくれた「ねえや」が里に帰り、15歳で結婚した。
そのため、今まで里から届いていたお中元、お歳暮、秋の果物などが「絶え果てた」と言ってるのですわ。おかしい「いつもの梨が届かんぞ」(露風)。
戦前は大家族主義ですから、三世代同居が当り前で、余裕のある家には「ねえや」が居た。
戦後でも、まだ一部に「ねえや」は居たのです。

でも「ねえや」は竹中平蔵の好きな「メイド」ではおまへんのですわ。
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2014-09-02 11:14

うなされた鉄腕アトム実写版

うなされる・・・・恐ろしい夢を見る。
「鉄腕アトム」の実写版は、何故か怖かった。
手塚治虫氏も、あまりに原作のイメージと違うので怒ったという話もある。

で・・・どのような夢を見たのか?
周囲は、白黒テレビと同じで灰色の世界である。
その灰色の光線は死の光線で、浴びると死んでしまう。
そこで、開いていた鉄の扉から中に入ると、そこは研究室だった。
そこは、アトムが空を飛べるように、ジェット推進装置の研究をしていた。
そこに殺人ロボット犬がいた。
ブルドックのような顔をしていたが、体は鋼鉄であった。
その犬に追いかけられて、私はマンホールの蓋のような円盤に乗る。すると、それは宙に浮いた。
しかし、あまり上空には上がれない。殺人犬が迫ってくる。

このような悪夢であった。
なぜかアトムは出てこなかった。

この夢が、実写版のアトムに関係あるのか?実は分らない。
ただ、夢だけは良く覚えている。


最後のほうに実写版の「鉄人28号」も出てくる。

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鉄腕アトムの悲しさ

鉄腕アトムは子供向けの漫画にしては、子供を不安にさせる要素が満載なのである。
アトムを作った天馬博士は、気性が激しく、気が変わりすぎるマッド・サイエンチストである。
天馬博士は息子のトビオが交通事故で死んだので、代わりに心を持つ児童ロビットを作り、トビオと命名する。
しかし、トビオの背が伸びないので・・ロボットだから当然・・・怒って、サーカスに売ってしまう。
心を持っているロビットのトビオは「お父さん、僕のどこがいけないの」と泣いて家に置いてくれるように頼む。
しかし、天馬博士はサーカス団の団長と、トビオを販売する契約にサインする。
こうして、サーカス団でトビオはアトムと命名されるのである。
アトムをサーカス団から救い出すのが、お茶の水博士である。
博士はロボット人権の立場から「ロビット法」を国会で通して、ようやくアトムを自由のロボットにする。
しかし、お茶の水博士はいかに優しくても、本当の父ではないのである。
そこで、お茶の水博士はロボットの父と母を作り、アトムに与えるのだ。

アトムの悲しい顔

アトムは・・殴るしか能のない「鉄人28号」とは違い、7つの威力を持っているが、
その凄まじい 威力に対して、常に違和感を持っているように描かれている。
敵を倒した後には、勝利の雄叫びではなく、下を向いて悲しい顔をする。
最初のテレビアニメ版(白黒)時代のアトムは常にそうであった。
その後のアニメで、アトムの悲しい顔が継承されたのかは確認していないが、どうだろうか。
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2014-08-31 20:40

鉄人28号はアニメの前に実写版があった

漫画「鉄人28号」が「少年」に連載されたのは1956年である。
テレビアニメの「鉄人28号」が、グリコの提供で始まったのは、1963年である。



しかし、その前に日立製作所の提供で実写版の「鉄人28号」があった。
これを見た記憶が「かすか」にある。
1960年に日本テレビ系列で放送された。全13話でモノクロ。
2月に始まり4月には放送終了していた。
記憶によると、鉄人はドラム缶を被ったような着ぐるみで、敵の着ぐるみロボットと殴りあっていた。
動きも単調で、かなり退屈だった。
実は、その実写版を思いだしたのは、先日、2005年に上映された、実写版の「鉄人28号」を、
DVDを借りて見たからである。
結論として、鉄人の実写版には無理がある。
鉄人は、武器を持たないロボットなので、殴るしかないのだ。
あの、大きな図体で殴るしかないのは、映像が持たないのである。



これは目黒川のような気がするが・・・・。ブラック・オックスの片腕が飛ぶ。



秘密基地を出発する「鉄人28号」。けっこうカッコ良い。



それでも、結局、殴り合う・・・・しかない。

鉄人28号のストーリィはどうも意味不明だ。
グリコ提供のアニメ版の冒頭は、金田正太郎の父が死ぬところから始まる。
傍に敷島博士と署長さんがいて「正太郎を頼む」と言い置いて死ぬ。
敷島博士は金田博士の研究室の同僚だから分かるが、署長さんは何で居るの???
この金田正太郎は少年探偵ということになっていて、署長との関係は明智探偵と荒井注刑事の関係なのである。
半ズボンの少年ながら学校に行かないで大人と面白いことをやっている・・・羨ましい奴なのである。

さて、鉄人28号であるが、太平洋戦争時、日本軍が進めた軍用ロボット開発計画により生まれたものである。
岐阜県乗鞍岳山中の地下に建造された研究所で、敷島博士を中心とした開発陣により研究が進められていた。
最初は人間と等身大のロボットで1号から26号の開発には成功するものの、それらは銃撃に対する装甲防御が不十分な未完成品だった。その後、敷島博士はこれまでの失敗を踏まえて設計を大幅に変更、巨人型ロボット27号の開発を進めた。
27号は一定の成功を収めたものの、実用機とするまでに至らなかった。
27号の成功を活かして建造されたのが28号なのだが、戦時中に建造された機体のスタイルは27号とまったく同じだった。完成した28号の起動実験が行われるが失敗、機体は爆散してしまう。
その後、戦況の悪化に伴い軍は鉄人計画の放棄を決定、敷島博士たち技術者陣は南方の孤島に設けられた、秘密の特攻兵器研究所へ移動することになる。戦争末期、孤島研究所の存在を察知した米海軍による空襲が行われ研究所は全滅、辛うじて生き残った敷島博士は終戦を知らず、長年に亘り助けてくれた原住民のもとで暮らしていた。
戦後10年後にインドへ渡り、そこで終戦と日本を騒がせている鉄人事件を知って帰国した。
敷島博士は小野田さんと同じ境遇であったのだ。

この鉄人事件というのが、突然、東京に鉄人が現れ「ビルの街にガオー」というものなのだが、
犯人は孤島研究所から鉄人27号の設計図を持って逃げた「白覆面の男」で、おそらく研究所員の誰かなのである。
アニメ版では鉄人27号と28号は別の外観にして分かりやすくなっているが、原作の漫画は外観が同じなので、ややこしかった。
その後、敷島博士は乗鞍岳の研究所で鉄人28号を完成させて、27号が暴れるのを防ぐ。続いてオフランスの泥棒が鉄人28号のリモコンを盗み、背中にロケットを積んで空を飛ぶように改造する。これを正太郎と署長と敷島博士と日本のヤクザが協力して取り返すという展開なのである。

2005年の松竹映画「鉄人28号」では、金田正太郎の祖父が兵器として開発した鉄人を、その息子が戦後に完成させた後に事故で死去、その子の正太郎が、ブラック・オックスの攻撃から東京を守るために、鉄人を操縦する・・・・というストーリィになっている。時代が過ぎたので・・・孫にしないと話があわんのである。





・・・それで、さらに思いだしたのは「鉄腕アトム」の実写版である。
何が怖かったのか詳しく覚えてないのだが、
このアトムの実写版を見て、子供の頃に魘された。
なので、もう一度見たい気がする。
覚えているのが・・・・
・空を飛ぶプレート(マンホールの蓋のようなもの)
・殺人犬

この2つに魘されたのだ。なんだろう???

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2014-08-30 17:09

海底軍艦の積極的平和主義

終戦の直前に神宮司大佐とその配下は、帝国海軍の無条件降伏の方針に反してイ号潜水艦を奪い南海へ消えた。
海軍が機密で開発していた「海底軍艦」の設計図を持って。
その後、20年。
1965年に至り海底軍艦は完成した。
いざ、帝国海軍の復活をと志す神宮司に、元の上官は冷たく言い放つ。

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しかし、上官は戦争を放棄したと言うのに、海底軍艦の力を借りたいという。
要するに戦争をやってくれ・・・ということだ。

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しかし、上官は・・・・

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・・・と意味不明なことを言い。


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・・・世界の要求に応えた武力行使なら良い・・・と言っているわけである。
これは自民党の「積極的平和主義」ではないか。
1963年の映画「海底軍艦」のみならず、この時代の東宝映画、テレビのウルトラマンシリーズから宇宙戦艦ヤマトまで、
すべては、この原理が貫徹されているのである。

それでも・・・・

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神宮司大佐は頑固にも「お断りします」。
しかし、その後に娘に日本国憲法の講義を受けて・・・考えを変えたと思われる。
それは映画には出てこないが・・・・
日本国憲法の前文には以下のように書かれている。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

日本国憲法のこの部分は悠久の大義に通じるものであるが、その前の部分と第9条の2だけが、大義の実行の邪魔をする。

前の部分

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

9条の2
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

まあ、GHQ一夜づけで作った憲法なのだから仕方がないのである。

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・・・・まあ、変なとこは後から変えれば良いので、まずは「海底軍艦」は発進なのである。


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2014-08-16 15:10

拳銃少年

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ハリマオの第一回は拳銃少年である。
少年は父から拳銃の特訓を受ける。

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静止の的を狙うだけではない。

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宙に舞う的も射抜く腕は必要である。

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この拳銃少年は、父も母も亡くなったので、叔父さんを訪ねてジャワ島に来る。
街にはハリマオの指名手配のポスターが。
「ハリマオは日本人らしい」と聞かされて・・・「日本人なら正義に反することは行わないはず」と思う。
その後、少年は「日本人である」ことを理由に逮捕される。
「おい、日本人だ・・・逮捕しないといけないが理由が無い」
「拳銃所持が理由になる」

ここでテレビを見ていた良い子は思う。
・日本人なら正義に背くことはしない。
・日本人であることを理由に政府は逮捕できる。
・こういう環境であるから身の安全のためには武装が必要だ。

その後、少年は逮捕され牢屋に入れられる。
牢屋には「ちょっとおかしい日本人が入っていた」
「日本人をいっしょにして大丈夫か?」
「いや、あの男なら大丈夫だとう」
その男はドンゴロスの松。
ハリマオの部下で、その正体は日本海軍一等兵曹、山田松五郎。
ちょっとおかしいのは、敵を欺く偽装である。

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白人が支配する政府は、住民にオンボロ武器を与えて武装蜂起させたところを大量の軍隊を投入して制圧。
支配権を強化すると共に捕虜を奴隷にして、シナ人を通じて密貿易で儲ける。

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少年が尋ねた叔父の家は、すでにシナ人の手に落ちていた。
叔父の行く先も、少年の姉の行く先もわからなかった。

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少年は拳銃の腕を買われて、このシナ人の仲間になるが、奴隷貿易をやっていることが分かり決別する。
「仲間になれ」と拷問を受けるが「同じ人間なのに、奴隷として売買するなんて許せない」と、シナ人を非難する。
大義に生きる日本の少年は多少の拷問には負けない。
少年が積み込まれた奴隷船にはハリマオが潜んでおり、怪しまれたハリマオも拷問を受ける。
少年とハリマオは海に落ちて漂流する。
このようにハリマオは強いわけではなく、圧倒的に強い敵に少数の戦力でゲリラ戦を戦っている状態である。
しかし、敵の力が強かろうと正義を貫くことが重要である・・・これが大きなテーマとなっている。

日本のは奴隷制度はなかった。
あらゆる階層・職業の人々の歌を収めた「万葉集」があった。

この日本の誇りと正論を打ち砕くために1980年代から中国と韓国によるマスコミ及び教育における工作が始まったのである。慰安婦、南京大虐殺、靖国問題は、こうして組織的に作られた。
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2014-08-15 18:28

「快傑ハリマオ」の記憶

『快傑ハリマオ』は、1960年4月5日 - 1961年6月27日まで日本テレビ系ほかで放送された。
1960年と言えば安保闘争の年である。1951年に締結された日米安保条約の改訂に伴う反対闘争が派手に報じられるなかで、テレビではハリマオが活躍していたのである。
父は、この番組の放映が報じられた最初から、ハリマオを見る気満々であり、番組のある日は早くから会社から帰りテレビの前でスタンバイしていた。
それは、おそらく舞台がインドネシアであるから。大学卒業後、商社マンとしてインドシナに赴任、長く民間人として、あの地域に居住していたからである。戦争が始まってからは軍と協力関係にあったであろう。
彼は本当のハリマオの正体も知っていたであろう。
「ハリマオというのは・・・・なんだよ」と何やら説明していたが、子供には良くわからなかった。

今ではハリマオは昭和初期にマレー半島で活躍した盗賊で日本人の谷豊であることは分かっている。
しかし、テレビドラマの『快傑ハリマオ』は、舞台がマラヤではなくインドネシアであること。
ハリマオの正体はなんと日本の海軍中尉大友道夫であること・・・など、実際のハリマオとは設定が違うのだ。
しかし・・・・ハリマオが大友であるちゅうことは・・・大友は・・・・ではないか??
このドラマは、今では放映が完全に不可能の「どえりゃー」ものなのである。

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ハリマオが来たことを示すカード。

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ハリマオの指名手配写真。

快傑ハリマオは最初はカラーで放映された。その後はパートカラーとなる。
日本で最初のカラーテレビドラマなのである。
マルコ老が幼少の頃に恐怖した「恐怖のミイラ」(ハリマオの後続番組)が白黒であったことを思えば、
「快傑ハリマオ」は際物ではなく、本当に力を入れていた番組だとわかるだろう。

さて、このハリマオの敵は・・?

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銃で植民地の住民を脅し。

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鞭で打つ・・・白人である。

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倒れた者をさらに鞭打つ非情。

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そこに登場するのがハリマオ。
植民地にて奴隷労働を強いられる住民の解放者である。

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第一話の終わりの予告編のナレーションが凄い。
「謎の人物、ハリマオ、白人達が恐れるハリマオとは誰でしょう?」

・・・・これは大東亜戦争肯定ではないのか?
戦後、GHQの検閲により、こうした表現は許されなくなったのではなかったのか?

そして、白人と組んで現地住民を抑圧するもう一つの勢力。それは・・・・

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シナ人である。・・・・、この番組の中で、ちゃんとシナ人と呼んでます。この時期は何の問題もなかった。
これは、深い歴史的事実である。
欧米列強は華僑を上手に使いこの地域を支配したのである。
そして、彼らは恐ろしい暴力組織でもあった。
実物のハリマオ=谷豊の家族はシナ人に皆殺しにされた。
谷豊だけが助かったが、妹の首を切り落として、手にぶらさげて帰るシナ人を見たという。

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・・・・次回、拳銃少年に続く。


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2014-08-12 23:05

海底軍艦でまた変えます

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映画「海底軍艦」が上映された1963年に、林房雄は「中央公論」に「大東亜戦争肯定論」の連載を始めた。
「海底軍艦」の上映中も神宮司の台詞に拍手が沸いたが、「世界は変わったんだ」という元上官の台詞の同意するものは少なかった。

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2014-08-10 16:25

「誰がさせたのです」

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海底軍艦は、1963年(昭和38年)12月22日に公開された、東宝制作の特撮映画。
原作は1900年に発表された押川春浪の小説『海底軍艦』だが、
映画では舞台を終戦20年後としている。1965年である。
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2014-08-09 16:02

靖国神社の予約番号 映画「海底軍艦」より

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日本では8月15日が終戦の日である。
この「終戦」という言い方は、敗戦を認めないので怪しからんという声が1980年過ぎから言われるようになった。
米国と中国と韓国及びその支援を受けている保守派といわれる人々が騒いでいた。
「怪しからん」というのは当たってます。
「まだ負けたわけではない」と思っているので「終戦」なのです。
青山繁治が「一度ぐらい戦争で負けたからって・・・」てな話し方をするとムカっと来るのは、そのためです。
まだ、負けたわけではありません。
石原莞爾の世界最終戦論をご存じないのか?

さて、1963年に上映された「海底軍艦」。
主人公である神宮司大佐の娘に、大佐の伝言を伝えに来て、
「怪しい奴」と警察に逮捕された男。
名前も出身地も言いません。
言うのは8561という番号のみ。
これは日本海軍の認識番号で、この番号さえわかれば何処の誰なのかは直ぐに分かる。
そして・・戦死した場合の靖国神社の予約番号でもある。
現在の自衛隊にも認識番号があるそうで、もともとジュネーブ条約で定められたものである。

1963年。終戦から18年。
まだまだ軍隊の認識番号が映画の中に出てきても、何の不思議ではない時代であった。

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2014-08-08 09:49

続・団塊の風景 

団塊の世代は昭和20年から昭和25年に生まれた人たちである。
戦争で戦地に行っていた兵隊さんが敗戦で日本に戻り、妻と再会して子供が出来た。
年間200万人を超える子供が生まれたのである。
当時はダイサンゴクジン(マッカーサー命名)・・・漢字で書くと投稿できない・・・が日本各地で大暴れしていた時代である。
こうした中で日本国民は敗戦で意気消沈していたわけではない。
私の叔父は語学堪能が理由で敗戦後の米軍将校の上陸立ち会っているが、
彼の話を聞くと、ビリピリしていたのは米国側で、日本側には負けたという意識はなかった。
すでにアジア解放の大義は果たされている。
この時期のインドネシア、インド、ビルマ、マラヤでは独立戦争が始まっている。
投降しないで解放軍と共に闘い続けている帝国軍人も居た。
皇居に切腹するつもりで終戦の詔を聞きに行ったという小学校の先生によると
「我々は陛下が忍び難きをを忍び、耐えがたきを耐えて」降伏せよとの言葉を聞いて、ひとまず鋪子を収めただけなのだ。
これが真実で、日本国民はまだやる気は充分にあったが、まずは復興して経済力を付けることにあった。

さて、この時代に生まれた団塊の世代は、今、何歳になっているのか?
昭和20年生まれは69歳である。
昭和25年生まれは64歳である。
60歳で定年。最後の昭和25年組も既に第一線を退いて4年を経過しているのである。

さて、本年から当社の清掃の仕事をシルバー人材に切り替えた。
それまで10年以上も専門業者にやってもらっていたのだが、どうも綺麗にならない。
ところがシルバー人材に切り替えたら料金は半分になり、かつ、見違える程、綺麗になった。
1回の料金が半分になったので頻度を2倍にしたら、もう毎日、ピカピカである。

以前との差
・始める前に挨拶がある・・・当然だが以前はなかった。
・気になっている場所、重点的に綺麗にしたい場所はないかを聞いてくる・・・・以前はなかった。
・終了後に報告に来る・・・・・一緒に現場をみる・・・・以前にはなかった。
・手を抜かない・・・・・以前は・・いったいどこをやったんだ?状態。
・腋臭にはミョウバンが効くと教えてくれる・・・・雑談で様々な知識が得られる・・・・以前にはなかった。

団塊のシルバー人材はお得です。

なお、私も団塊世代ですが、10歳は若く見られるようで、まだ現役ばりばりです。
SONOさんも元気に活躍中と思います。早く帰ってくんろ。
  1. 団塊世代の真実
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2014-08-08 00:28

団塊の風景 

以前、書いた記事だが多量のコメントを頂いた。
---------------------------------------------
小学校に入学した日、午前中は授業だが、午後から子供会があるので、それに出てから帰るように先生に言われた。
子供会は自治組織なので、先生はその教室には立入禁止なのだという。
そこで、近所に住んでいる日本人形作りの家の男の子(苗字忘れた)と、その隣の山下家(大きな二階家であったが親の職業は不明)の六男と、川向こうの眼鏡の朱実ちゃんと3人で、わが繁華街の校区の子供会の部屋(といっても放課後の教室を割り振っているだけだが)をドアを開けたとたんに目に入ってきたものは、異形の上級生達の群れであった。

中学生の着る黒の学生服を着た大男が、小さな椅子に座って仲間と話していた。
学生服は兄のお下がりだと思われるが、片目が潰れていて、さらに青い目ヤニが潰れた目を覆っていた。
片目はナイフで刺されたのでありうか・・・そのような印象であったが「どうしたの」と聞ける雰囲気では全くなかった。
その大男の周囲にたむろする上級生達も、いつでも直ぐに戦闘体制に入れるような危険の匂いのする連中であった。
何故、そうなのか?
それは日本人を襲い来る者達が周囲に居るからである。
彼らの余りの横暴さに、怒った日本人が逆襲し、市街地で銃撃戦を繰り広げる事態は1947年頃までは続いていたのである。
子供会が校区別に作られたのは、集団で登校と下校をするためだ。
登下校の途中で連中に襲われないようにすること。
そして、道草して知らずに「危険な場所」(連中の居住場所)には入ることがないようにする。
この2つが大きな使命であった。
「今日は襲撃される恐れがある」というような情報は警察から学校に伝えられる。
すると、先生は「気を付けて帰るように」と告げる程度の時もあれば、授業を中止し、早めに下校させる場合もあり、特に危険の場合は、先生達が竹刀で武装して、子供達を引率して下校する。

早期下校は小学校の2年頃までは時々、あった。
先生の護衛付下校は、一回あったことは間違いなく記憶している。
先生達も常に臨戦態勢であり、戦後民主主義の花畑の住民は皆無であった。
しかし、この危険な時代は1960年を境に急速に終焉するのである。
私の世代が危険な時代を知る最期であり、2年違いの妹は、平安で民主的???な小学生時代を送っており、こうした話は知らない。
先生達も「貴方達が境の世代、愚連隊の仲間に入る生徒も出なかったのが嬉しい」と妙な卒業式の挨拶をしていた。
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耳をもがれたり、目をつぶされるとは・・・どういう世界なのか?・・というコメントもありました。
若い頃「毎日、日本人狩りをやっていた」と在日の映画監督が自慢していたではないですか、あれですよ。

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これが団塊の風景です。
この風景は地方によっては1960年代後半までつづいていたらしい。
皆さん、お忘れでしょうか?
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2014-07-02 16:38

団塊世代の悲劇

アルプス電気会長、中国工員に囲まれる 侵略否定発言?
朝日新聞デジタル 7月2日(水)7時16分配信

アルプス電気会長、中国工員に囲まれる 侵略否定発言?

中国広東省東莞市で1日、工場を視察していたアルプス電気会長による第2次大戦を巡る発言に怒り、操業を止めて抗議する従業員たち=工場関係者提供

中国広東省の東莞市で1日、電子部品工場を視察中だった日本の大手メーカー「アルプス電気」の片岡政隆会長(68)が、第2次大戦を巡る発言をきっかけに反発した工場従業員らに取り囲まれる騒動があった。地元政府や同社が明らかにした。工場は同社の香港子会社が取引する「東莞長安日華電子廠」。地元政府によると警察が警備に駆けつけ、けが人は出ていない。工場設備に損害もなかった。
地元政府や工場従業員によると、片岡会長は工場の管理職を集めた午前の会議で、同社の海外展開について説明。その中で第2次大戦について触れ、日本を擁護する発言をしたという。
不満に思った中国人管理職の一人が、工場内に発言内容を伝えたらしい。従業員の一人は発言内容について「日本は中国を侵略していない。欧米による植民地化を防ぎ、中国を守るためだったと話したと聞いた」と取材に答えた。
従業員ら約千人は操業を止め、工場の正門付近で会長の謝罪を要求。片岡会長は午後2時ごろ正門で謝罪したというが、通訳の声が小さかったため周囲に伝わらず、抗議活動は夕方まで続いたという。(小山謙太郎=香港、伊沢友之)
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片山会長は昭和21年生まれで、もろに団塊世代。
サンフランシスコ講和条約の発令以後、東京裁判で戦犯とされた人達の釈放運動が盛り上がっていた時には小学生。
マッカーサーの米国議会での証言・・・日本は自衛のための戦争を行っただけ・・・も伝えられた。
私も学校で授業中に先生からこの話を聞いた。
日本は侵略戦争をしていない。亜細亜を欧米による植民地支配から解放するためであった。
そして、日本は結果的に勝利した。そのように教わったのが・・・ついつい出てしまったのである。



確認事項
1951年、サンフランシスコ講和条約に従う正当な手続きにより、
東京裁判での戦犯は釈放された。
日本には戦犯はいないということだ。
これは国内的国際的にも承認済みの話。
A級だった重光葵は外務大臣として堂々と国連加盟演説をした。
戦犯として国内及び海外で絞首刑となった者は
日本の法律によらず殺されたから占領下でのことで戦死扱いとなった。
靖国神社には国のために戦った戦死者しかいない。
裁判という名前は付いているが戦勝国による報復的な行政処分に過ぎない。
このことは米国でも、すでに確定された認識で、A級戦犯がどうしたという話は
1970年以降に朝日新聞と特定亜細亜諸国の工作が始まるまでは誰も知らない話であった。
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2014-06-01 12:05

ホルンの合いの手が入る「ウルトラセブン」の歌

ウルトラセブンの音楽は冬木透が担当した。
特に主題歌の重厚な和音とコーラス、ホルンによる「合いの手」が入る部分が印象的で一度、聞いたら忘れられない。
円谷一からは、子供たちの聞く音楽であることを意識し、音楽性が育つような和声感覚を重視した曲作りが要望されていたという。
主題歌を歌っている男性コーラスグループ「ジ・エコーズ」には尾崎紀世彦も参加している。

冬木指揮の「ウルトラセブン」のメロディと合唱。





明確な侵略の意図を持った痴的生命体から祖国を守らないとね。
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2014-05-04 12:49

集団的自衛権の問題は1992年のゴジラ来襲で解決済みである

「ゴジラvsモスラ」は1992年に公開された日本映画で「ゴジラシリーズ」の第19作である。
観客動員数は平成ゴジラシリーズ中最多の420万人、配給収入は22億2千万円を記録。
インフレ率を換算しない場合、全シリーズ中最高額の収入であり、正月興行の邦画としては1973年公開の「日本沈没」が保持していた配収記録を19年ぶりに更新した。
登場する怪獣は、ゴジラ、モスラ(幼虫、成虫)、バトラ(幼虫、成虫)。
ゴジラ迎撃戦でメーサー戦闘機が初登場し、大規模な戦闘が繰り広げられる。

この1992年には国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立するが、
派遣される隊員は、自衛の為の最小限度の武器の携帯が許されているが集団的自衛権は適用されないとなった。
その時、太平洋小笠原沖に巨大隕石が落下したことにより、メカキングギドラとの戦いで海底で眠りについていたゴジラが目覚め、インファント島では地中より巨大な卵が出現した。モスラの卵である。

この隕石はノストラダムスの大予言により1999年に落下するべきものであったが、予定が狂ってしまったか・・・あるいは別の巨大隕石であったのか不明であるが、1999年の隕石を防ぐ使命を持って地中に封印されていたバトラという巨大な蛾が復活して、これも日本列島に向かう。このバトラはモスラが善の蛾だとすると悪の蛾であるという設定。
拝火教などで地上の出来事の全ては善悪2つの神の戦いにて発生するとなっているので・・・何事の不思議なけれども。


で・・・この戦いはモスラ対ゴジラ&モスラ対バトラとなるわけで、圧倒的にモスラに分が悪い。
さらに、モスラは善の神様であるので・・・やや弱い。


富士山が噴火し噴出する溶岩の中からゴジラが出現。
飛び立つモスラの前に成虫となったバトラも出現。
モスラとゴジラが横浜みなとみらいで激突しているところにバトラも現れ三つ巴の戦いが始まる。


この時、日本国の首相は苦渋に満ちた表情で言うのであった。
「モスラが日本のために死を覚悟して戦っているのに、我々が傍観していて良いのか?たとえ今後どのような災難が降りかかろうとも、我々はモスラを助けるべきである。我々は卑怯者ではない」
モスラとの集団的自衛権の行使である。
こうして自衛隊はモスラを助けるために最新のメーサー戦闘機を投入、大規模な戦闘が繰り広げられる。

なお、今回、モスラは国会議事堂に繭を作り戦闘に飛び立つ。
これが原作に忠実であり、前回(1964年)は間違えて東京タワーに繭を作ってしまったのだ。

間違いは修正された。

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2014-02-22 21:21

「戦後レジーム」の幻想





この話は極めて違和感があるのです。
戦後のマッカーサーのGHQの日本が悪いという教育が浸透して、それが今でも強固で選挙に負けた・・・というのは違うでしょう。
GHQの教育が行き届いて、国民が「日本は悪いことをした」と思い込んだと言うなら、下の4つの決議は行なわれるはずがない。

1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」


そもそも「戦後レジーム」なるものは幻想だと思う。
私は戦後の日本経済の驚異的な成長は、戦中レジームが残っていたからだと思っています。
戦中に形成された「一億火の玉」の強力な国家意識が戦後も継続したから、あの驚異的な成長が実現したのです。
その戦中レジームを破壊しようとしたのが、
教育・文化面では1970年代以降の朝日新聞などのマスコミによる工作
政治面では新自由クラブ、新党さきがけ、日本新党などの、お困りの国の手先新党。
ビジネス面では新自由主義、グローバリズム、規制緩和。
この3方面攻撃で戦中レジームは壊された。

この戦中レジームというのは明治維新以降の近代日本の集大成であり、
まさに瑞穂の国の資本主義なのです。


日本が取り戻すべきは戦中レジームであり、
強く、明るく、礼儀正しい大日本帝国の時代なのです
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2012-08-14 11:34

団塊世代が学校で習った「葉隠」

私は国語の成績だけは良かった。

昔、旺文社の試験なるものがあり、それが何だか分からなかったが、国語だけは全国で100番以内に入っていた。

そこで、私は国語の先生にとっては「ティーチャーズ・ペット」であった。そこで成績が落ちると「おまえ、弛んでるぞ」と教室で名指しで叱られ、拳骨が落ちた。

体育でもないのに、何故、拳骨なのか?それだけ期待されているということだったと思う。

 

ところが、国語の先生はほぼ全員が進歩的文化人ではなかった。日本の歴史と伝統を愛する守旧派であった。

 

国語の授業では作文の宿題が多く、私の作文は先生のお気に入りで、先生自ら朗読して、素晴らしいと褒めてもらっていた。

ある時、「生きる」というテーマの作文が出て、私が書いたものが、先生を喜ばせた。

「良く生きるには、如何に死ぬべきかを常に考えて、毎日を大切に生きることである」と書いたからである。

 

「これは葉隠ではないか。君は葉隠を知っているか?」と、先生は黒板に大きく「葉隠」の文字を書いた。

私は「葉隠」を知らなかったが「如何に生きるかは、如何に死ぬかを考えるべき」というのは、我が家の家訓のようなもので、常に両親から聞かされていたことを書いたまでである。

「日々、死ぬ準備をしておき、身辺を清浄にしておくべき」と祖先の事例をまじえて教えられていた。

私がそのように話すと、先生は頷き、黒板に「武士道は死ぬことと見つけたり」と大書した。

 

「この葉隠というのは、江戸中期佐賀鍋島藩により編纂された武士道の聖典であるが、君たちの生きるヒントになるから、今日は、この話をしよう」と言うことになった。

当時は学習指導要領などは、無かったのか、あっても先生方が無視していたのか不明だが、あらゆる先生の授業は、いつも脱線していた。

 

「これは、ただ死ねば良い良いう意味ではない。死ぬことを良いことだと言っているわけでもない。人皆生きる方が好きである・・・と葉隠にも書いてある。

君らもそうだろう。私も生きる方が好きだ。

しかし、戦場に出たら真剣勝負が待っている。

この時に、生に執着すると迷いが出て勝てない。

自分の名誉とか、失敗したら犬死だ・・などと考えると剣に迷いが出る。

こうした時は、さっさと死ぬ方につくことだ。うまくいくかどうかなど考えては駄目。その拘りが死を招く。死んだ気になり戦うことで、勝つ可能性も出てくるのである。

しかし、戦場に出て、そこで急に死ぬ気で頑張っても成功しない。日々の訓練が大切だ。

毎朝毎夕の修練でくり返し何度も死んでみて、常時死に身となって居れば、武道に自由を得、一生落度なく家職も仕果たせるものである。これを武道の大丈夫と言う・・・と葉隠に書いてある。

武士だけではなく、我々も、何時、死ぬかは分からないのである。何時、死んでも良いように身辺を綺麗にしておくことだ。そして、今を一所懸命に全力で生きよというのが、武士道の精神だ」

 

この話を生徒達は熱心に聴いていた。

団塊世代の受けた戦後教育なるものは、こういう側面もあったのだ。

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2012-02-27 14:10

朝の挨拶 就寝の挨拶

朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、服を着替えてから、

まずは、居間の父上のもとに行き、

両手を前に着いて、御辞儀をしてから、

顔を上げて、「お父様、お早うございます」と挨拶する。

お父様は、優しい目をして「お早う、今日も良い日だね。しっかり勉強して、良く遊ぶんだよ」と声を掛けてくれる。

そこにお母様が食事の準備に入ってくるので、

「お母様、お早うございます」と挨拶する。

そして、母の支度を手伝う。

私の小学校時代の朝は、このようであった。

 

夜は、子供達は子供部屋で就寝する。

寝る前は、父上の部屋に行き、

両手を前に着いて、御辞儀をしてから、

顔を上げて、「お父様、お休みなさいませ」と挨拶する。

お父様は、優しい目をして「お休み、今日はどうだった。しっかり勉強して、良く遊だか」と声を掛けてくれる。

「もし、勉強で判らないことがあれば、遠慮なくお父さんに聞くんだよ」

と付け加える。

その後に、母様を探して「お母様、お休みなさいませ」と挨拶する。お母様は「明日、寝坊しないよう早く寝なさい」と声を掛ける。

それから子供部屋に引き上げ、布団を敷き、少し読書してから寝る。

 

本家の祖父の家に行くと、挨拶が大変になる、

まずは、お爺様、お婆様、お父様、お母様の順序になるからだ。

それから、叔父様、叔母様に挨拶してから就寝する。

 

友人の家に泊まりに行った時も、同様だったので、

昔は、どこも、このような挨拶をしていたと思う。

おそらく江戸時代からの伝統であろう。

 

 

さて我が家の子供達であるが、さすがに手を付いての挨拶はしていない。

しかし、朝の挨拶、就寝に挨拶は習慣となっている。

 

母親=妻が特に力を入れたのは、感謝の言葉だ。

本当に「ありがとう」が良く言える子供に育っている。

 

「ありがとう」が言える人間は実に気持ちが良い。

これは生きる力になるだろう。

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2011-11-01 10:29

サムライ

もう20年前の話であるが、某大手企業と言うより巨大企業の調査部の課長に合いに行った時に、彼は笑いながら最後にこう言った。

「ところで、貴方も頭に丁髷を載せてるんだろうね」

私は「もちろんです。脇指もここに・・・・」と腰を叩く。

「そうですか、それなら私は貴方に協力します」

 

彼が聞きたかったのは「貴方は日本のために戦う覚悟はあるのか」と言うことだ。

通商戦争というのは、文字通り戦争なのである。

 

日米構造協議も、その後の日米自動車・部品協議も、日本は負けていない。刀傷は負ったが骨は絶たれていない。

忘れた頃に発表されたMOSS最終報告書を読んで欲しい。概ね日本の主張が通っている。

 

ボロ負けしたのは、政治家が絡んだ交渉だけである。

田中角栄が絡んだ日米繊維交渉は身を切られ、骨も絶たれている。

小沢一郎が絡んだ1989年の日米通信交渉も同様で、政治家が相手の脅しに乗って、米国側の無理をむりやり通している。

 

日本の政治家にはサムライは居ない。

彼らに任せてると、骨を絶たれる。

TPP交渉も、そうなるだろう。

 

 

 

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2011-05-21 15:14

拳銃無宿

 

スティーブ・マックィーンの旦那は、この作品で日本の少年を魅了した。

ウィンチェスターの銃身を短く切った「ランダル銃」なるものを所持した賞金稼ぎである。

 

1958年から1961年まで、米CBSテレビが放映。

日本では1960年から放送された(たぶん)。

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2011-05-20 00:06

ウィンチェスターとThe Rifleman

どこからやって来たのやら

いかつい顔に優しい目
笑えば誰でもなつくけど 悪人どもには
鬼より恐い ライフルマン、ライフルマン
無敵のライフルマン
 

 

冒頭のライフルの連発は、当時の少年を夢中にさせた。

子供は武器が大好きである。

多くの少年がコルトの6連発銃を持っていた。

もちろん、私も持っていた。

 

 

でも、ライフルは持っていなかった。

だから、ライフルマンは、とても新鮮であった。

ザ・ライフルマンの放送が始まったのは1960年。

この時期から、少年雑誌にライフル特集が多くなり、

ウィンチェスターのライフルの写真と詳しい解説が掲載されていた。

 

 

 

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2010-10-23 13:21

鴨居の御真影のある風景

タイの知人の家に遊びに行った時、自宅に国王の写真が飾られていた。

 

これを見て、ああ懐かしいな・・・と思った。

 

私が小学校の頃、昭和30年から35年頃であるが、我が家の座敷の鴨居に、天皇・皇后両陛下の御真影が飾られていた。

 

その家は、父の転勤により赴任した場所にある社宅であり、この御真影は、東京の自宅より持って来たものであった。

 

この時代は、どこの家でも、鴨居に御真影が飾られていたように思う。

 

それが何時から消えたのか?

 

中学時代までは残っていたと思う。

でも、高校時代は無かった。

 

これは新幹線の開通で前の家が立ち退きになったからである。

 

新しい家に移った時、御真影は消えていた。

 

「もはや戦後ではない」という事なのか。

この時代より、日本人の魂の彷徨が始まった。

 

 

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2010-10-23 09:59

花柳界の崩壊

芸者とは宴席席やお座敷に呼ばれ、

舞踊、鳴り物(三味線、笛、小鼓、太鼓)、唄、それにお遊び芸や「楽しい会話」などでおもてなしをする「芸能の達人」である。

芸のできない妓や、芸の修行をしない妓は、芸者とは呼ばない。

 

芸者と娼婦を混同している人がいるが、全く別の職業である。

 

宴席に呼ばれるイベント屋で、アトラクションを行い場を盛り上げる商売だ。

 

江戸時代、関西では芸者は男であり、太鼓持ちと呼ばれていた。これが幕末、明治と移る中で、女性の芸者が主流になった。

 

仕事の場所は宴席。

吉原などでは、娼婦(太夫)が来る前に宴席に呼ばれた。

芸者の待機場所が置屋である。

地域の芸能プロダクションのようなものだ。

 

芸者は芸が出来なければ、いかに容姿が良くても評価されなかった。

 

唄、踊り、演奏、さらにお座敷芸も様々で、砂絵なんてのもあった。

 

座敷の真ん中に大きな白い紙を敷き、そこに着色された砂で絵を書いてゆく。その様子を見て楽しむ。

 

宴席で仕上げられる、その場限りの芸術。

出来栄えが素晴らしく、お客がカメラに収めて持ち帰る

 

この他、実に様々な芸があった。

 

芸者は芸で勝負し、売春はしないのが原則。

旦那の居る芸者は、芸者仲間からはあまり評価されなかった。

やはりパトロンが居ると、生活が安定するので、芸を磨く努力はしなくなる。

力のある芸者は自力で稼げるので自由恋愛を貫いていた。

彼女らは、けっこう積極的で、好みの男が居るとアプローチする。私もアプローチされた。

 

1989年、バブルが崩壊すると、多くの芸者置屋が廃業した。芸者も、この商売を見切って辞めていく。

 

一方で、銀座、赤坂の高級クラブの姐さんが、失業して温泉地に流れこんできた。

彼女達は、確かに美人だが芸が出来ない。

芸者の世界では、まるで評価されないが、美貌ゆえに顧客には喜ばれた。

 

顧客を含めて花柳界も落ちたものね・・・と言われた。

 

その後、芸の出来る芸者は減り、コンパニオンの世界がやってきた。

 

なお、芸者番付のエントリーに付けられたKazkさんのコメントを掲載します。まさに、こうした状態でしたね。

 

 Commented by kazk さん  

実は小生の母方の伯母が、箱根湯元で芸者置屋の女将をやっておりました。

まあ、一言では言えないようないろんな経緯があったようで小生も詳しく聞いてません。
今は郷里の茨城に引っ込んでますが、やはりバブルが崩壊した頃に仕事に見切りをつけて廃業しました。

伯母が言うには「景気の問題がないとは言わないが、それならばならばなんとかなったかもしれない。

でも新しくこの世界に入ろうとする子が減り、また子どもたちにこらえ性がなくなってるから、きちんとした修行が出来なくなってる。

だから、今まで通りのことが維持できなくなるのは確実なのでやめた。」とのことでした。

 社会が変わるのは仕方ないことかもしれないが、それで人間が良くなってるとはとても思えないねえ、というのが口癖のようでした。

 

 

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2010-10-21 21:40

芸者番付

箱根湯本は東京の奥座敷である。

ここは箱根登山鉄道の駅ではあるが、新宿から小田急線が直接、乗り入れている。

箱根の玄関口であり、駅前温泉でもある。

この温泉には、芸者の置屋が何軒もある。

置屋の組合もある。

 

昔、ここで芸者番付が発表されていた。

今は、まだあるのか知らないが、伝統的な芸者はコンパニオンに席巻されて、そのようなムードは無いだろう。

 

番付は江戸庶民の娯楽である。

あらゆるものが番付けとなった。

相撲番付の形を真似て、役者、美人、浮世絵師、諸国名物、評判の食べ物、山、川、温泉、料理屋等を東西に分けて序列をつけた。

 

 

 

まあ、一種の洒落ですね。

だから、箱根湯元の温泉芸者の番付も、古風で良かった。

ただ、見方を注意しなければならない。

 

芸者置屋のお母さんが言うには「一番上の方は注意しなければならない」とのことであった。

 

何で?と聞くと、この番付けは指名のポイント順になっているとのことだ。

 

指名が多いというのは、評判が良いということではないのか?と聞くと・・・・

 

上の方は、毎日、出勤しても不可能と言うポイントが付いている。すなわち、彼女達の一日は24時間ではなく、48時間なのだという。

 

何故、このような事が起きるのか?

 

それは旦那が「彼女に恥をかかせてはいけない」と、来ないのに金を払いポイントを付けるからだという。

 

旦那とは何か?

WIKの解説では以下のようになっている。

-----------------------------------------------

芸妓の世界にはかつてこの旦那様が不可欠だった。

芸妓が存在する土地には旦那様の存在があり、いわゆるパトロンやスポンサーといったような人物である。

しかし、適度に援助したり協力する程度のものではなく、芸妓一人を見出し決めるとほとんど生涯にわたり世話をしてくれる。

芸妓が若手見習いから一人前になるまでには多額の費用がかかる。

この旦那様は着物から持ち物、装飾品や生活費まで数百万円~数千万円負担する。

この莫大な費用からしてみてもだれでも旦那様になれるわけではなく、必然的にその土地の財界人やトップクラスの企業の経営者などで、多額の金銭をポケットマネーでまかなえる人物であった。

---------------------------------------------

ひええ・・・そんな気前の良い男が居るのか??と私が驚くと・・・

 

「東京の奥座敷で、派手に金を使いたいという男がいるのよ」とのことであった。

 

だから、一番上の方は、旦那の力で影響しているので、本当の実力なのかは分からないの。

指名するなら番付けで八合目あたりよ。小結あたりね。

私の目で見ても、このあたりは、実力派の素晴らしい子が居るわよ。

 

これは会社の序列でも同じであった。上の方は、コネとかゴマ擦り上手で、本当の実力かどうか怪しかった。小結あたりに実力派が居た。

 

だから、この話は良く分かった。

 

しかし、こうした強力な旦那衆の居た時代は、バブル崩壊で終了した。

 

江戸からの伝統も途切れた。

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2010-10-12 08:47

戦艦長門の屈辱とゴジラ

 

 

小学校の高学年になるとプラモデルが流行した。

国産初のプラモデルとなったのは1958年(昭和33年)末にマルサン商店から発売された潜水艦ノーチラス号等4点のキットとのことだ。

 

マルサンに2ヶ月遅れて日本模型が発売した「伊号潜水艦」を購入して、組み立てた記憶がある。

これは、ゴム動力により走行し、価格も100円と安価だったため大人気商品となった。

 

確か、お風呂で走らせて遊んだ。

 

それから、零戦、隼、グラマンなど飛行機のプラモデルをつくり、ホンダスーパーカブ、シリアの家、など低価格モデルを作った後に、いよいよ戦艦である。

 

まず、戦艦大和は作った。

ついで戦艦武蔵

そして、戦艦長門である。

 

戦艦長門は連合艦隊旗艦であり、戦艦「大和」が戦中は存在そのものが極秘だったこともあり、戦前と戦中には長門・陸奥こそが日本海軍を代表する戦艦として、国民から親しまれた。

太平洋戦争中は「大和」「武蔵」に次ぐ主力艦として温存され、終戦まで稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。

そして、終戦時に米軍に接収され、ビキニ環礁で行われた米軍の核実験の標的にされた。

 

戦艦長門については、以下の動画で概要が分る。

 

 

原爆実験の標的にされた長門の屈辱は、戦後の日本人の心の中にマグマのように溜まっていた。(当時の小学生は学習雑誌の記事で知っていた)。

 

 

そして、長門はビキニ環礁の底から復活し、ゴジラとなり、自分を見捨てた祖国に戻るのである。

 

 

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2010-10-11 18:24

君が代行進曲

 

 

納戸の中に古い蓄音機があり、父の集めたSP盤もあった。

トスカニーニ、リパッテイ、コルトーの古い録音。

世界の行進曲のレコード。

その中に、この「君が代行進曲」もあった。

 

君が代の旋律を行進曲に編曲したもので、

明治初期から軍楽隊が演奏していたものだ。

 

今でも演奏されているようである。

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2010-09-16 18:55

大井海岸三業地と芸者置屋

京浜急行の大森海岸駅の近くにラブホテルが多いのは知っていた(何故に??)。

 

こういう場所は、昔は三業地だったところである。

料亭があり、芸者置屋があり、栄えた場所が、いまでは場末のラブホテル街になっているのである。

 

五反田の西口もそうね。

 

大森海岸駅の近くは「大井海岸三業地」と呼ばれたらしい。

 

この地で、芸者置屋の再興に尽くした「まつ乃屋」のホームページが、実に良く出来ている。

(でも、創業者のまり子姐さんは去年の秋に永眠) 

 

http://www.vin-de.sakura.ne.jp/matsunoya/index.html

 

三業地の歴史は以下の通り。

 

大森海岸に明治24年ごろ、海水浴場を開設したところ、交通の便の良さも手伝って人気のリゾート地となる。

・この地の発展を予測した資産家が明治26年、八幡橋に隣接する土地に「伊勢源」という料理屋を開店。

・明治27年にはこの地に鉱泉が湧き出たことに加え、日清戦争の好景気を追い風に「魚栄」「松浅」「八幡楼」などの待合、料亭が海浜部・磐井神社周辺に次々とを開店。

明治31年頃、芸妓屋「三輪家」が開業。

・日露戦争後には「鯉家」「日の出屋」「初鰹家」「立花家」など、後にこの花街を代表する芸妓屋が続々と営業を開始。

・「鯉家」が中心となって「海岸芸妓屋組合」も組織され、花街として形成されてゆく。

・大正期には品川海岸、大井、大森海岸、大森新地、森ケ崎、さらに羽田の穴守稲荷神社周辺に形成されていた穴守まで、今からは想像することすら難しい花街の風景が広がっていた。

・最盛期には400人近い芸者が在籍し、明るいうちから三味線の音が流れ、芸者が行き交う街であった。

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2010-09-13 22:35

肩凝りとサプリ

肩凝りがサプリで治るわけがないと思っていたが、明らかに改善している。

 

首がポキポキと鳴り、肩もポキポキと鳴り気持ち良い。

肩凝りが酷い頃は、固まってしまって動かなかった。

眼圧が明らかに低下しており、眼のボヤケが無くなった。

このまま、飲み続けると、かなり改善しそうである。

 

サプリと言うのはバランスである。

多くのサプリを組み合わせて飲んでいる人がいるが、

これだと合計すると月6000円から8000円になってしまう。

さらにマッサージが月3回で18000円。

 

それならバランスに優れた高級サプリを飲んだほうが安い。

 

私の飲んでいるのは以下の成分バランス

・ルテイン

リコピン

・クロセチン

・βカロチン

・αカロチン

・ビタミンE

・DHA

・カシスエキス

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実は需要なのはバランス

単品物は、あまり利かない。

(例えばルテイン単品とか)

 

バランス良く配合するところに技術があるのです。

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2010-09-08 13:49

BONダンス騒動

 

いよいよ秋祭りのシーズンである。

地元の商店街も、提灯を並べて雰囲気を盛り上げる。

 

ところが、今年は幟に「BONダンス フェスティバル」の文字が見える。

 

そこで、町内会会員の洋食屋に抗議。

・・・・BONダンスとは何か?

「盆踊りのことのようです」

 

・・・・・BONダンスでは、誰も分からんだろう。

「町内会の若手の提案で、BONダンスに決まったのです」

 

・・・・・若手というのは30代か?

「いや、若手は50代です。商店の経営者の平均は60代から70代ですから・・・」

 

・・・・そもそも盆踊りは、八幡様への奉納のための踊りである。なにがフェスティバルじや・・・。

 

「そのように反対する老人衆もありまして、妥協案として日中はBONダンス、日が暮れたら伝統的な奉納盆踊り大会と言うことで手打ちが行われたようです」

 

・・・・ううむ、すると将来はBONダンス、さらにヨサコイ・ソーラン節などの意味不明な行事になる恐れがある。

 

「若い人を集めたいとの発想のようです」

 

・・・・浅草のサンバ・カーニバルも意味不明で嫌なのに、DONダンスは中途半端でさらに嫌じゃ。

カーニバルとは謝肉祭。動物の謝肉祭はサン・サーンスの作曲じゃ。関係ないけど・・・。

 

「それより、祭りのイベントで心配される一大事がございます」

 

・・・・それは?

 

「町内会で野菜のつかみ取りというイベントを、BONダンスの時にやるはずなんですが」

 

・・・・主婦層を狙ったか・・・

 

「その野菜を提供する町内の八百屋のシャッターが・・・」

 

・・・・・シャッターが???

 

「ここ数日、開かないのです。みんな心配しているのですが・・・どこにも休日とも書いてないのです」

 

・・・・・まさか?

 

「遅い夏休みなら、良いのですけど」

 

--------------------------------------

その後もシャッターは開いていない。

 

そのかわり、商店街のセブン・イレブンの店頭で、半月前から野菜が売られるようになった。

 

今日は、そこで胡瓜を買った。2本105円であった。

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2010-08-15 22:07

最初から日本酒ではいけないの?

下の娘が6月で二十歳になったので、酒を飲みに行った。

いつもの日本料理店である。

 

母親の言いつけを守り、20歳前はアルコールは厳禁であったが、親の遺伝か、飲み始めたら上達が早い。

 

そこで、最初の質問が来た。

「最初から日本酒ではいけないのか?」

「好きなものを飲めば良いので、私は日本酒にします」と言えば良い。

 

「ビールは苦くて、美味しくない。無理に飲んでも、一杯飲むのにとても時間が掛かる。でも、日本酒はビールより高いので、最初から日本酒を指名するのは悪いかなと思ってしまう」

 

「日本酒はビールよりもアルコール度数が高いので、注意が必要だ。最初のうちは、飲む量を決めておくと良い。

その量を、一緒に飲む人たちに言っておくと良い。

言い方としては、私、ビールは苦くて苦手なの、日本酒を少しだけ頂くわ・・・という感じだ。

日本酒を飲むと酒飲みだと思われるので、最初からお銚子一本だけと宣言しておくと良い。

日本酒は料理を美味しく食べるために飲むものだから、量を飲む必要が無い。良い酒を選んで、適量を自分のペースで飲むことだ」

 

小津安二郎の「晩春」の中でも、女性が酒を奨められる場面が出てくる。

 

主人公の紀子は「私、頂かないの」と断り、お酌に徹している。

もう一人の女性は「私、お銚子5杯と決めているのよ」と言い、5杯まで数えて、そこで止めている。これを嫌味がなく、実にスマートに接するのは技術である。

 

お酒の飲み方を教えるのも、親の役割である。

 

 

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2010-08-08 22:50

100万アクセス突破

2006年から4年間も掛かっているのだが、プログ「実業の世界」も気が付いたら100万アクセスを突破していた。

  

記念に・・・

アンリ・ルソーの絵を掲載することにした。 

サン・ニコラ河岸から見たサン・ルイ島 1888年頃

 

なかなか良い絵でしょ。

世田谷美術館で見れるだよ。
 

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2010-07-19 23:28

「デカメロン」の思い出

 

中学時代、仲間の間でボッカチオの「デカメロン」が熱病のように行った。

 

「中学校の図書館には、エロ本などは置いてない・・・と思うだろうが、実はあったのだ」と言う男が居た。

 

「嘘だろう」

「真実である、これを見よ」と彼が示したのが、岩波文庫の「デカメロン」であった。

エロ本と言っても、文字だけである。

しかし、文字だけというのは実に想像が働くものなのだ。

噂が広がり、その後、図書館にある「デカメロン」は常に貸し出し中であった。その隣にあるダンテの「神曲」は、誰も借り無かったが・・・・。

 

 

デカメロン(Decameron)は、ジョヴァンニ・ボッカッチョによる物語集。

「デカメロン」はギリシャ語の10日(deka hemerai)に由来にする。

果物のメロンとは関係がない。

 

1348年に大流行したペストから逃れるために邸宅に引き篭もった男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話をするという趣向

10人が10話ずつ語り、全100話からなる。

内容はユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談など。


 

 

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2010-07-14 09:09

先生の見立ては正解だったのだ

昨日の朝は、腰痛が酷くて起きられない。

 

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。」

カフカの「変身」は、実は腰痛の描写ではないか?

 

 

 

腰痛で一番、困るのは、靴下が履けない。

次に困るのが、パンツが履けない。

その次に困るのが、床に落とした10円玉が拾えない。

 

・・・ところが、今日の朝は、かなり良くなり、まだ痛みはあるものの、起き上がることができた。

 

腰痛が始まったのは7月6日。

7月7日に医者に行き、全治1週間と言われた。

先生の見立ては当たっていた。

やはり、長年の経験の蓄積がある町医者の見立ては凄い。

 

麻生さんは、日本経済は全治3年と見立て、

経済政策の「3弾ロケット」を策定したが、

1弾めを打った段階で、政権交代となった。

その一段目の効果で、なんとか経済は持っているが、

追加が無いので、低空飛行を続けている。

 

そして、国会で質問も答えられない藪医者政権が続く。

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2010-07-09 13:14

On The Street Where You Live

 

今日も整形外科でリハビリである。

名前を呼ばれてリハビリ室に入ると、一人のお婆ちゃんが話しかけてくる。

 

「貴方は〇〇さんの親戚の矢野さんですか」

「はいそうです」

「私は、昔、貴方の家に良く遊びに行きました。おばあさんが元気な頃ですけどね」

「ええ、それは、かなり昔の話ですね」

「そうです。すると貴方は御孫さんのyuyuuさんですね」

「はい、そうです」

「そうですか・・・私は貴方の赤ちゃんの頃に会ってますよ」

「ひえええ、そうですか」

「若奥様はお元気ですか?」

「若奥様・・・私の母ですか?大正13年生まれで、もう86歳ですから若奥様ではないですが、元気で暮らしています」

「そうですか。宜しくお伝えください。昔の事ですので、覚えておられるのか分かりませんが、若奥様がお嫁に来た頃に、おばあちゃんは喜んでおられました」

 

同じ町に長く住む。

それも3代にわたり住むと、こういう世界になる。

これが東京の下町である。

悪いことは出来ない。

顔も素姓も知られているからだ。

 

私の娘たちも、この町が好きである。

長女は一時、杉並区に引っ越したが半年も経たずに戻ってきた。

 

君住む町で・・・

ここに住むだけで幸福を感じる素晴らしい町よ、永遠に。

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2010-07-08 22:47

旦那さん、コルセットやってるね

本日は腰痛にてリハビリに病院へ行く。

この病院の向かいが、私の馴染みの八百屋。

八百屋の主人に見られてしまった・・・・・。

 

「旦那さん、コルセットやってるね」と主人。

「見い~た~なあ~」と私。

「秘密は守るので桃を買ってくんろ」

「桃は当たり外れが多いからやーよ」

「なら、メロンはどうか?」

「これも高い割には、外れると悲惨」

「それなら佐藤錦は。250円だよ」

「さくらんぼは、今年食べてないから買おうかね」

 

・・・ということでサクランボを買わされてしまったとよ。

 

この八百屋、昔は威勢の良い掛け声で、売りまくっていたが、今では数軒先にスーパーが出来たので、かなりの影響を受けた。

 

でも、潰れないで続けているのは立派。

 

 

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2010-07-07 17:57

コルセット・ブルース

 

昨日の朝から急に腰が痛くなった。

特に前に屈めない。

困って、今日の午後、町内の整形外科にいく。

 

この整形外科はいつも超満員で、数年前に小指の骨を折った時、数時間も待たされた。

 

その時、先生は「お待たせして申し訳けなかった」と誤ってから「見事に折れてまんがな」と診断してくれた。

 

そこで、今回は午後の部が始まる時間に合わせて突撃。

 

「どうしました」

「腰が痛いとです」

「今まで腰痛はあったのですか?」

「ありません、今回が初めてです」

「原因と思われる、思い当たる行動は?」

「普段は歩かないのに、支笏湖で散歩をやり過ぎました」

「支笏湖の祟りですね」

「何とかして下さい」

「じゃあ、レントゲンを撮りましょう」

 

・・・ということで3枚ばかりを撮影。

 

「どうでしょうか?」

「骨がやや変形してます」

「原因は?」

「原因は年でんがな」

 

「椎間板は無事でしょうか}

「椎間板ヘルニアに兆候はありません

こんなに胴が長い割りには異状が見られませんね」

 

治療法は?」

患部の炎症を抑える薬と、緊張と取る薬を1週間、処方します。それからコルセットをして患部をホールドすると良いです」

 

・・・というわけで、今もコルセットをしている。

 

全治リハビリ1週間」ということで、明日から医者通いである。

 

 

 

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2010-06-24 11:10

昔の国旗掲揚係りに捧げる動画

僕等の頃はこう言う光景は普通に有って普通に国旗掲揚もやってましたね。
学級委員になって国旗掲揚係になると普通に誇らしかったりして。
何時から日本の教育はおかしくなったのですかね。

 

sonoraoneさん

 

当時を記録した日本の動画はありませんので、グルジアのもので、当時の雰囲気を伝える動画がありました。

国旗掲揚係は、誇らしかったですね。

 

集団訓練の時など、皆の前で国旗を揚げると、とてもカッコ良かったです。 

 

   

我々は団塊の世代の末尾ですから、少なくとも団塊の世代から、私の妹の世代までは、毎朝、校庭に日の丸の国旗を掲揚していたはずです。

いつから、おかしくなったのか?

1970年以降ではないかと思っているのですが? 

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2010-06-24 00:20

手本は二宮金次郎

柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり
親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
兄弟仲よく 孝行つくす
手本は二宮金次郎


骨身を惜(おし)まず 仕事をはげみ
夜なべ済まして 手習(てならい)読書
せわしい中にも 撓(たゆ)まず学ぶ
手本は二宮金次郎


家業大事に 費(ついえ)をはぶき
少しの物をも 粗末にせずに
遂には身を立て 人をもすくう
手本は二宮金次郎

 

 

 

昭和30年頃、小学校に入学したが校庭には二宮金次郎の銅像があった。

 

授業でも、二宮金次郎の伝記を学び、

「手本は二宮金次郎だぞ、分かっておるな」と先生から指導を受けた。

左翼の先生は、どこにも居なかった。

 

校庭には日の丸を毎日、掲揚していた。

生徒たちが当番で、朝早く日の丸を揚げ、夕方、降ろした。

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2010-06-18 13:49

電子レンジで半熟卵

別にお湯でゆで卵を作っても良いのだが、好みの半熟状態にするのは、微妙に難しいので、最近は「電子レンジ・ゆで卵」製造機を使っているのである。

 

最初は疑っていた。

 

電子レンジで、美味しいゆで卵ができるのか???

 

ところが、実に美味しいのができる。

お湯より美味しく感じるんだな、これが・・・

 

その理由は・・・・

 

電子レンジのマイクロ波で加熱するのではなく、

マイクロ波を遮断して、水を加熱。

その水蒸気で、ゆで卵を作るのである。

 

だから、調理時間は10分程度と長い。

半熟の場合は8分。

さらに柔らかめの場合は7分。

 

電子レンジだと1分程度で出来る・・・と想像すると間違える。お湯での調理時間と変わらないのである。

 

さて、この電子レンジのゆで卵器、あちこちで販売停止になっている。

 

国民生活センターが、この製品を取り上げたからである。

 

「今回のテストでは取扱説明書の表示どおり使用した場合には卵は破裂することはなかったが、加熱時間を長くしたり、水を少なくしたり、出力を大きくしたりすると卵が破裂することがあった。

また、電子レンジ内で破裂が起こらなくても、卵を取り出そうと容器を開けたり、箸などで卵に衝撃を与えた場合に破裂することがあった。

原因としては容器の隙間から入ったマイクロ波で卵の内部が加熱され、生じた水蒸気により内圧が上昇し、少しの刺激でも破裂が起こりやすい状態になっているためと考えられる。

 

 

このように書かれると、トラブルはやーよ・・と商社は販売を停止する。

 

私の使っているのは、新潟県燕市の曙産業製のもの。

この会社の製品はマイクロ波遮断にノウハウがある・・・として以下のように見解を発表している。

 

http://www.akebono-sa.co.jp/etc_20006.html

 

今のところ、この見解を信じて、毎日、使ってますよ曙産業殿。

今日は半熟をラーメンに入れました。

明日は半熟を塩で食べます・・・・旨そう。

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2010-06-13 15:16

住民税支払額 秋の日の釣瓶落としかな?

サラリーマンの平均年収は450万円程度と思われるが、業界によっては410万円程度もある。

私の経験では、サラリーマンの年収は650万円程度が一番良い。

それ以上、上昇しても税金と社会保険料をがっぽりと天引きされるので、手取りはあまり増えない。

1000万円を超えると給料は上昇するが手取りは減少する。

配偶者特別控除も受けられなくなる。

 

逆に給料が下がれば、税金は大幅に下がる。

 

 

 

これが私の住民税の支払額推移。

単位は万円である。

今年は何と13万7000円が年額。

2009年の半分以下。

創業で収入が少なかったので、こうなった。

でも、2005年は年間80万円を超えていた。

月に7万円以上も払っていた。嘘のような話。

 

これは住民税だけの話だが、社会保険料はさらに高所得者への負担が多い。

所得税も多いので、この時期は貯金が増えなかった。

年収が700万円を超えたら、独立するのをお奨めします。

それまでに、独立できるような実力を蓄えてください。

 

住民税が85万円から14万円まで下がる。

すなわち、6分の1となる。

手取りも6分の1になったら食えませんが、3分の1程度なんだな。

 

それで、来年はどうなるか・・・。

給料は10%程度上げたけど、去年よりは年収が下がる。

なぜなら、去年は前の会社に数ヶ月勤めていたが、この時の給料は、独立後の社長給料の2倍もあった。

 

銀行から金を借りる予定が無いのなら、社長の給料は高くする必要は無いのです。

当社は、金を借りる必要が無いので、社長の給料は低くてOKです。

 

借金の心配をする会社なら、そうはいかない。

銀行は社長の給料が低いと金を貸してくれません。

なぜなら、中小企業への融資は社長の個人保証だからです。

給料が低いと信用度も低くなるのです。

 

中小企業の社長の給料が高くなっている理由は、そこにあるのです。

当然、社長は多く貰った給料は、郵便貯金の貯めて置くのです。

それはケチだからではないのです。

会社への短期借入金にするためプールしておくのです。

 

個人保証ですから、銀行から出来るだけ金を借りずに、社長から借りる。そのための資金です。

 

当社も社長からの短期借入金があり、現在、毎月、返済しています。

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