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2014-09-15 13:24

ナイルさんの思い出

久しぶりの銀座のナイル・レストランに行ったら、三代目の時代になっていた。
初代の頃からのウエイターのオジサン(ナイル氏の親族)は、レジを任されていた。
「おお、なつかしい」
「だいぶ、太ったね」
「お互い様」と言って爆笑した。
数年前にナイルレストランの向いの店に入ったら、二代目がスパゲッティを食べていた。
「おお、こんなところイタリア料理を食べてるんですか」と聞くと・・・
「最近、うちのムルギランチを食べたことある?」と急に聞いてきた。
「いや、しばらく食べてない」
「いや、驚いたよ」
「何が?」
「旨くなったんだよ」
「店主が驚いてどうする?」
「三代目が印度から新しいコックを入れたら、どんどん旨くなったんだよ」
「それは知らなかった。早急に確かめてみるよ」
・・・・二代目は、新しいムルギランチの味の評価を、古くからの顧客に聞きたかったらしい。
二代目は相変わらずお洒落ではあったが、その佇まいは第一線を退く寂寥が感じられた。

私は20代の中頃からナイルレストランに通いだした。
そのころは初代のAMナイル氏がレジの陣取り、顧客に声を掛けていた。
印度に行ってみると分かるが、インド人は人間が大好きなのである。
道を歩いていても「お前は何処から来て、何処に行くのか?」と聞かれる。
普通は「観光客を鴨にする人達だ」と思い対話を避けるが、どうも、そればかりではないようだ。
「お前は何処から来て、何処に行くのか?」
これは、あまりに哲学的な質問ではないですか?
試しに話して見ると、別に何かを売込もうとしたわけではなく、純粋に異国の人に興味があっただけという例もある。
観光案内のガイドを有料で引き受けるとか、御土産やへの勧誘も多いが、そうでない人が結構多いのに驚いた。
銀座の店でナイル氏が顧客に「何処から来て、何処に行くのか?」と聞いても不思議でなかったが、日本人の顧客は誰もが敬遠して・・・個人情報保護法をやっているのであった(当時はそんな法律はなかった)。
私は印度での体験でなんとなく分かったので、ナイル氏と様々な話をした。

ナイル氏はインドでもヒマラヤの方ではなく南部の出身だ。
「デカン高原か?」と聞いたら「何のこっちゃ」と言われた。
「山の方ではなく海の方である」とのこと。
聞いてみると印度の南の南。三角形の先の方である。
当然、インド料理も北部のものとは違うのである。

料理の面で苦労した話は続編で書くとして、まずはWIKIによるナイル氏のプロフィール。

A.M.ナイル、またはアイヤッパン・ピッライ・マーダヴァン・ナーヤルは、インド独立運動家、実業家。
1905年に、イギリス領インド帝国のトラヴァンコール藩王国(現在のインド南部のケーララ州)ティルヴァナンタプラム(トリヴァンドラム)で、クシャトリヤ階級の母とバラモン階級の父のもと、10人兄弟の末子として生まれた。
高校在学中からインド独立運動や、カースト差別批判運動などに参加し、イギリス植民地当局から要注意人物として監視された。
1928年、かつて北海道帝国大学に留学していた5歳上の兄の熱心なすすめにより日本に留学することを決意し、京都帝国大学工学部に入学、土木工学を学ぶ。
来日早々、東京府を拠点に活動していたインド独立運動家のラース・ビハーリー・ボースを訪ねている。
その後、勉学の傍ら、日本におけるインド独立運動に精を注ぐ。
1932年に京都帝国大学を卒業、栗本鐵工所へ入社するも、インド独立運動家としての講演活動などが多忙となり退社。
その後、ビハーリー・ボースの腹心となり、日本政府の上層部や荒木貞夫や田中隆吉などの軍上層部、頭山満や大川周明などのアジア独立主義者らと関係を結ぶ。
これらの活動を受けて駐日イギリス大使館より要注意人物としてマークされ、インドへの帰国は事実上不可能となる。

かつてインド臨時総督を務め、過酷な植民地政策を進めたヴィクター・ブルワー=リットン率いる「リットン調査団」に欺瞞を感じ、同調査団の満州国派遣に対する抗議活動などを行っていた縁から、満州国協和会の創設メンバーの1人で京都大学の同窓生の長尾郡太からの誘いを受けて、日本の租借地の大連で開催されるアジア会議の開催に奔走する。
その後、1934年に開催された同会議に出席する。
その後も満州国と日本を行き来し、満州国への渡航後に習得した中国語を駆使して、モンゴルからの羊毛のイギリスへの輸出停止や、インドの独立派の新聞記者と愛新覚羅溥儀の会見を成功させるなど、様々な形のインド独立運動及び反英工作を行い、その傍ら満州建国大学の客員教授などもつとめている。
1939年には日本人の浅見由久子と結婚。同年に長男が誕生した。
1941年12月に日本軍がイギリス領マレー半島に対する攻撃、いわゆる「マレー作戦」及び真珠湾攻撃を契機として太平洋戦争(大東亜戦争)に突入、イギリスをはじめとする連合国と開戦する。
その後1942年には、ラース・ビハーリー・ボースを首班とする「インド独立連盟」(のちに後継者のスバス・チャンドラ・ボースによって「自由インド仮政府」となる)の設立に貢献し、同連盟の指導者の1人となった。
他にも、英印軍の捕虜のうち志願したインド人によってシンガポールに作られたインド国民軍の設立に関わった。
その後は、インド国民軍の初代司令官となった元英印軍大尉のモーハン・シンとビハーリー・ボース、および日本政府と日本軍の間の緩衝役として活躍した。
1943年11月に東京で開催された大東亜会議の開催の際には、自由インド仮政府の一員として日本の東條英機首相に助言を行うなど、日本や満州国、日本の占領下にあったシンガポールなどを拠点に、ビハーリー・ボースやチャンドラ・ボースらとともにインド独立運動及び反イギリス活動に従事する。
しかし、1945年にはビハーリー・ボースとチャンドラ・ボースが相次いで客死した上に、同年始めには日本が本土周辺の制海権、制空権を失ったためにインド国民軍の本拠地があるシンガポールに戻ることもできず、日本国内にとどまって活動を続けた。
しかし、同年8月のアジア・太平洋戦争の日本の敗北により、日本と協力した上でのインド独立が不可能になってしまう。
ナイルの活動は長くイギリス統治下のインド植民地政府によって監視されており、第二次世界大戦後も、ナイルが指導者のひとりであったインド国民軍に参加した将兵は厳しく裁かれていた。
そのためインドに帰国することは事実上不可能であった。
一時は由久子の実家のある茨城県に姿を隠していた。
1946年の極東国際軍事裁判(東京裁判)のために来日したラダ・ビノード・パール判事の通訳を務め、各種の判断材料を提供した。
1947年8月にインドがイギリスから独立し、インド国籍を得るが、日本に住み続ける。1949年に駐日インド大使の顧問に就任する。
同年、東京都中央区銀座に日本初のインド料理専門店「ナイルレストラン」を開店(同店は現在も三代目のナイル善己が引き継いで盛業である)。
1952年には小泉忠三郎とともにナイル商会を設立、インドの食材などの輸入、販売を手掛ける。
ヱスビー食品にスパイスを供給したり、インド大使館の公式行事に協力するなど、日本におけるインド料理の普及に少なからず貢献している。
戦後処理が終わってからも、パール判事が来日した際にはブレーンを務めたほか、石橋湛山や大野伴睦、藤山愛一郎など日本の政財界人との広い交友関係を生かし、在日インド人協会の代表などを歴任し、日印親善活動を続けた。
また、インド政府の依頼により1970年の大阪万博のインド館の運営にも協力した。
1984年には、日印親善に尽くした功により日本政府から勲三等瑞宝章を授与された。
1990年、故郷のティルヴァナンタプラムで死去した。

こんな貴重な歴史の証人が銀座のナイルレストランのレジに座って顧客に話しかけていたのである。
もったいない話ではないか?
ナイル氏が英語で自伝を書いた時も、日本では殆んど話題にもならなかったが、私は店で売っていた本を購入した。
ナイルさん本人に薦められて購入したのか、ウエイターに薦められたのか覚えてないが、ナイルさんの嬉しそうな顔が頭に浮かぶのだ。この本は、その後、日本語訳が出たのであろうか?

続く

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2013-05-05 11:40

麻生さん駄目よ本当のこと言ったら

インドを訪問した麻生太郎副総理兼財務相は4日、ニューデリー市内で講演。

日中関係について、「インドは陸上で中国と国境を接し、日本は海上で接触を持っているが、われわれは過去1500年以上の長きにわたり、中国との関係が極めてスムーズにいったという歴史は過去にない」と述べた。

 

麻生氏は、インド商工会議所連盟などが主催する講演会に出席。質疑応答で、中国インドでも領有権をめぐる紛争があり、安全保障や海洋分野での日本とインドの関係を強化すべきではないかとの質問に対し、答えた。

 

また、中国の軍事的台頭に対抗する日印関係を問われ、「インドと日本は哲学で結ばれ、価値によって突き動かされる同盟国同士ではないだろうか」と指摘。

豪州米国が駐留軍を置くという事態は、地域のスタビリティー(安定)を大事にしなくてはならないという表れだ」と述べ、米国オーストラリアを含めた4カ国の協力態勢を築く必要性を強調した。

 

一方、麻生氏は講演に先立ち、ニューデリー近郊でインドのシン首相と会談した。

シン首相は日銀の量的・質的金融緩和について「目覚ましい措置をとられている」と強い支持を表明した。

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ついつい本音を言っちゃうのだから。

 

しかし、露西亜と印度の話が急速に進んでいるように見えるが、ちゃいまんねん。

この話はかなり前から進んでいたのですが、民主党の政権交代で3年間ストップしていたのです。

 

この話を止めるために、日本国民は民主党政権を選んだのでしょう?

あるいは、この話を止めたい勢力に騙されたのかね?

 

3年前に準備が出来ていたので、初動は順調ですが、これから邪魔が入ります。

 

麻生さん、駄目よ、本当の事言ったら。まだ早いわよ。

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もちろん実業の世界でも準備は進んでまんねん。

一流大手企業の40代の切れ者を捕まえて質問すれば分かる。印度と露西亜の市場にはやたら詳しいが、中国市場には全く詳しくない。

 

 

その理由は中国ビジネスは2005年頃に終了したからですよ。この時代にまだ中国やってたら恥ずかしい。

「ウチの会社、遅れてて、今頃、中国やってるんですわ」

「ほう、そりゃまずかんべ」

・・・・・てな会話があったのが2005年です

 

中国市場をやったのは彼らの先輩です。

若手の切れ者社員は中国市場は興味が無い。

可能性が無いと分かっている市場を研究してどうする?

 

中国市場をやった彼らの先輩(私もこの世代)のさらに先輩は米国市場と東南アジア市場をやっている。これは、私の叔父(父の弟)の時代。


その前は戦前で・・台湾と満州とインドシナでした。

これは私の父の時代です。

まだ、我が家にありまっせ。父の「マカッサル支社勤務の辞令」が。

 

 

マカッサル(インドネシア語: Kota Makassar)は、インドネシアの都市。旧名はウジュン・パンダン(Ujung Pandang)。スラウェシ島の南部に位置し、南スラウェシ州の州都である。

ゴワ=タッロ(マカッサル)王国時代の17世紀前半から後半にかけては、交易中継港として大いに栄えた。現在は人口が約120万人でインドネシア7番目の大きさである。また、東インドネシア地域の中心的な都市でもある。元々、都市の名前はマカッサルであるが、1971年にウジュン・パンダンに改名され、1999年に元の名前に戻された。

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なお、麻生さんの記事の後半の部分も、怖いわねえ。

 

豪州米国が駐留軍を置くという事態は、地域のスタビリティー(安定)を大事にしなくてはならないという表れだ」

 

・・・もう米国韓国を諦めたということですわ。

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2012-05-10 16:07

バングラデシュ

 

今日はバングラデシュの青年と話した。

バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」という意味。

英国の東インド会社は、ベンガルにあり、インドとインドシナの中間の地で、この両地域で商売をした。

ベンガルの隣はビルマであり、ここも英国領であった。

昔、ベンガルはインドで最も栄えた場所であったが、今や世界の最貧国である。

 

ガンジス川の河口にあり、その水は、しみじみ汚いという。

日本の透明な水は、天国の清流のようだという。

 

なお、彼は中国で水に当たり、下痢で苦しんだ。

中国の水の汚さは、ガンジスを越えている。オソロシ。

「食器やコップを洗ってないので、食堂に入ると汚れた食器が出てくるのはタマラン」と言っていた。

日本のビジネスマンは日本人向けの高級料理店しか行かないので、こうした事は知らない。

中国水が足りないので、洗えないのです。

 

バングラデシュの面積は日本の40%であり、人口は日本よりやや多い(1億4500万人)。

世界で7番目に人口が多い国であり、都市国家を除くと世界でもっとも人口密度が高い。

首都はダッカである。

 

インド英国から独立した時、ベンガルは東西に分かれた。

東ベンガルが東パキスタンを経てバングラデシュに、

西ベンガル(州都・カルカッタ)はインド領となった。

 

現在、バングラデシュは世界の衣料産業が集まっている。ユニクロがバングラデシュに生産拠点の一部を移したが、他の日本メーカーも続々と、この地に生産拠点を移している。

人件費は月2000円程度で、以前の中国の人件費並みである。

 

彼の父親は月給2万円程度で、当地では上の方であるが中途半端。本当の金持ちはもっと資産があり、ポシェなどに乗っている。

 

彼は日本の某大学の大学院を出てドクターであるが、学費は全て日本政府が出して呉れたという。

親父の月2万円の給料で、とても日本への仕送りは無理。東京で安いアパートを探したが、家賃は4万円で、親父の給料の2倍。

 

日本の海外留学生への援助は手厚いことは良くわかったが、これらの留学生の多くは、祖国に帰るよりも日本での就職を希望していることである。

  1. インド
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2011-04-03 00:51

大黒天女の肖像

 

怒りと殺戮の女神カーリーは、インドでは人気がある。

インド最大の商都「カルカッタ」は、カーリー信仰の中心でもある。

カーリーは、額に3つ目の眼を持っている。

インドの神様は、殆どが三つ目であるが・・・。

 

そして、カーリーの足の下には、常に旦那が存在する。

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