我が愛する皮肉屋のサン・サーンスが、グラス・ハーモニカのために作曲した「水族館」。
組曲「動物の謝肉祭」の中の一曲。
浅田真央ちゃん素敵。
これがグラス・ハーモニカ。
ベンジャミン・フランクリンの発明らしい。
これがグラス・ハーモニカの演奏。モスラではないのだ。
曲はチャイコフスキーの「胡桃割り人形」ですな。
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我が愛する皮肉屋のサン・サーンスが、グラス・ハーモニカのために作曲した「水族館」。
組曲「動物の謝肉祭」の中の一曲。
浅田真央ちゃん素敵。
これがグラス・ハーモニカ。
ベンジャミン・フランクリンの発明らしい。
これがグラス・ハーモニカの演奏。モスラではないのだ。
曲はチャイコフスキーの「胡桃割り人形」ですな。
サン・サーンスが38歳の時に作曲した歌曲「死の舞踏」
40歳の時に交響詩に書き換えられる。
柱時計が12時を打つと、死神の弾くヴァイオリンの音に合わせて骸骨が踊る。
映画音楽みたいに情景が浮かぶ。
木琴で骨の鳴る音がしたり、当時から「下品」と言うことで評判が悪かった。
誰も演奏しないのでサン・サーンスは「化石になるぐらい忘れられた音楽」という副題を付けて、動物の謝肉祭の「化石」に、一部のメロディを入れている。
「巴里の空の下」ではなく「巴里の屋根の下」である。
1930年に完成したルネ・クレール監督の最初のトーキー映画。
昔の映画は、サイレントと言って映像だけであった。
チャップリンの初期やロシアのエイゼンシュテインの映画はサイレントであった。
この「巴里の屋根の下」は世界最初のトーキーではないが、世界初の本格的なトーキーである。
今、見ても実に完成度が高い。
この映画は全てセツトで撮影された、どこにも無い巴里の町である。
内容は一人の女性をめぐる四角関係の人情喜劇であるが、ところどころに素晴らしい映像が散りばめられている。
この時代のジュリエット・グレコは実に良い。
大学時代に良く通ったバーのママさんが、こんな感じ。
いつも黒づくめの服装で、カウンターの中で一人でせっせと注文品を作っていた。焼き饂飩もカレーもジンライムも、ジントニックもマティニもチンザノも、ブルーハワイもブラッディ・マリーも器用に作った。
手が空くと煙草を一服。
常に寡黙で、お客と話は殆どしないのだが、
お客は皆、彼女のファンだった。
しかし、お客と親しくなることはなく、私生活は分からなかったが、おそらく旦那が居るに違いないと思われていた。
しかし、店には、その男の影もなかった。
ある日、一番で店に入ると、彼女は椅子をどけて空間を作り、回し蹴りの練習をしていた。
細身であるが、空手をやっていたようだ。
「ストレス解消に時々、ジュークボュクスを肩の上まで持ち上げてるのよ」と言っていた。
「今度、見せてね」
「気が向いたら見せてあげるわ」
・・・てな話をした。
彼女はまだ、お店をやっているだろうか?
1949年にシャンソン歌手としてデビューしたグレコは、
1951年に、ドーヴィルのシャンソン・コンクールに出場し、エディット・ピアフ賞を獲得する。
この時に歌ったのは「私は日曜日が嫌い」である。
そして1952年に、この「ロマンス」によりACCディスク大賞を受賞した。
若いころはJuliette grecoのレコードを良く聞いていた。
何回も何回も聞いたので、もうすっかり脳髄に染み付いてしまった。
その後、CDの時代になり、新たに購入したのだが「どうも違うぞ」と思った。
録音が新しかったのかも知れない。声がクリア過ぎるのだ。このCDは、ヤフーのオークションで売ってしまった。
古いグレコのレコードが好きである。
1892年生まれのフランスのシャンソン歌手。
本名はマリー・ルイズ・ダミアンMarie-Louise Damien
ダミアンと聞くと「オーメン」を思い出してしまうのだが、ダミアの生涯は謎と伝説に覆われていて、よくわかっていない。
サン・サーンスという作曲家は好きである。
交響曲などもあるが、小さい曲がなかなか良い。
「動物の謝肉祭」の「象」など、コントラバスのメロディが素晴らしい。
これは「水族館」 雰囲気が出ている。
化石・・・骨が鳴っている。
サン・サーンスは骨が好きなようである。
「動物の謝肉祭」の中の曲ではないが、「死の舞踏」という曲も骨が鳴る。
この曲は、最初のヴァイオリンからして怪しい。
「動物の謝肉祭」は1886年にチェリスト、シャルル・ルブークの催すプライヴェートな夜会のために作曲された。
初演はオーストリアのクルディムにて、サン=サーンス、ルイ・ディエメのピアノ、シャルル・ルブークのチェロ、ポール・タファネルのフルートなどにより行われた。
その後、同年内に2度非公開で演奏されたが、他の作曲家の楽曲をパロディにして風刺的に用いていること、プライヴェートな演奏目的で作曲されたいきさつなどの理由により、以降サン=サーンスは自身が死去するまで本作の出版・演奏を禁じた。
公開初演は作曲者死後の1922年2月25日、ガブリエル・ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団によって行われた。
その際オーケストラによって演奏されて以降、本作は管弦楽曲として世に知られるようになった。
リズ・ゴーティ、この退廃的な声は、耳について離れません。
リス・ゴーティ(Lys Gauty, 1908年 - 1994年)はフランスのシャンソン歌手。
情感あるアルトの声を持ち、パリのミュージック・ホール「ア・ベ・セ」の花形として活躍した。
日本ではがルネ・クレール監督の映画「巴里祭」の主題歌(1933年録音)が親しまれている。
パリ近郊のルヴァロワ=ペレに生まれる。
父親は自動車修理工で、家は貧しかった。
ゴーティはデパートの帽子売り場で売り子をしながら歌を勉強した。
当初はクラシック音楽を学び、次第にシャンソンに傾倒するようになる。
パリでデビューするが、1920年代はほとんど無名だった。
1934年から、プァソニエール大通りにオープンしたミュージック・ホール「ア・ベ・セ」の初代看板スターとして出演。
同年、「暮れゆく港 (Le bistrot du port)」がヒットする。
1938年、映画『流しの女演歌師』に主演。
ウルトラマンの強敵、バルタン星人は、1965年に来日したシルビー・バルタンの名前から取ったという根も葉もない噂があった。
この「悲しみの兵士」は1970年のヒット曲。
シングル盤を持ってた学友に借りた記憶がある。
「今宵ただひとり」この曲は、グレコの曲ではない。
レオ・マルジャンヌが大戦中にヒットさせた曲である。
しかし、彼女はナチ占領下のパリで、ナチに協力したとの罪で、終戦後にパージに合い、引退してしまう。
その後、グレコが、この歌を拾って、自分の持ち歌にしたのである。
Salvatore Adamoは1943年にシチリア島のコーミゾに生まれた。3歳の頃、父親が家族を連れてベルギーの鉱山に働きに行く。
1963年にサントワ・マミーがヒット。
「とんぶら姉ちゃん」も同年のヒット曲だ。
アダモはイタリア語、スペイン語、日本語など、様々な言語で「とんぶら姉ちゃん」を歌っている。
Sans Toi Ma Mie
アコーディオン弾きは、ピアフの初期のヒット曲である。
ある男が兵士として戦場に行く前に、この歌をピアフに託し「是非、歌ってれ」と依頼。ピアフは、この曲を一瞬で気に入り、自分の持ち歌にした。
場末の女と、街頭のアコーディオン弾きの悲恋を歌った曲である。
ピアフのは、凄すぎて重いので、
飲みすぎで頭痛のする今日は
クロード・ヌガロがカバーしたアコーディオン弾きを聞く。
ヌガロの旦那は、ジョルジュ・ブラッサンスのお友達。
前のエントリーで紹介した妙な箱型楽器は、
電気が無くても様々な複雑な音を出せるので大道音楽家が使うものだ。
そして、主旋律はアコーディオンである。
新年会の第2部は、アコーディオンのバンドが入った。
演奏者はアコーディオンの魅力に取り付かれ、
フランス、ベルギー、ドイツの街角でも演奏してきた方で、実に素晴らしい演奏を聞かせてくれた。
アコーディオンの演奏は、この「無関心」という曲から始まった。
演奏者は標題も言わず、一挙に弾きだした。
良い曲は標題に関係なく、人を魅せる。
誰も「無関心」では居られなかった。
イカレたファランドールを踊る群衆に囲まれて
流されていくうちに、恋するあの人を見失ってしまった。
ピアフ亡き後、この歌をカバーしている歌手は多数居るが、この歌の哲学的主題を歌いきっているのは誰も居ない。
今年の4月からスタートした「
これで短足おじさんの紹介があった「迫りくる太陽の異変」を見た。
過去の気象の調査によると太陽の活動期と活動期の間隔が伸びると、次に寒冷期が来るという。
現在は・・・伸びてまんがな。
・・・ということは。
これから寒くなると言うこと。
世界的にCO2が要因との「地球温暖化詐欺」はバレてしまい、まだ信じているのは日本だけとなってしまったが、さすがに軌道修正をしはじめた。
さて、この番組が終わったらピアフの映画が始まった。
エディット・ピアフ 愛の讃歌
2007年の映画である。
父は大道芸人。母も場末の歌い手。
夜中に産気づいた母親は、病院へ駆けつける途中、
ふたりの警官に見守られて路上でピアフを産み落とした。
10歳の頃から、彼女は父親とともに街頭に出てチップを集めた。
15歳になると 父と別れて、一人で大道歌手となる。
その後、キャバレーで初舞台を踏む。
ピアフの姉御の唄では、こんなのが好き。
旦那の近況
2010年
8年前から交際中であった恋人のダニエラが12月28日に男児を出産し、ポルナレフが一児の父となったことが公表された。
ポルナレフ66歳、ダニエラ27歳のカップルが話題になり、ポルナレフと妊婦姿のダニエラのツーショット写真がマスコミに公開された。
男児はヴォロディア(Volodia)と名づけられた。
2011年
2月21日、昨年末に生まれた男児の父親はポルナレフではなかったことが、ポルナレフ自身によってフェースブックおよびツイッターで発表された。
ポルナレフによると、「私の子供ではなかったことを告げなければならないのは非常に悲しい。何回も私が子供のDNA検査を主張したところ、ダニエラは真実を告白し、それは検査でも確認された。」とのこと。
ダニエラはポルナレフに真実を告白した後に、男児と共に失踪している。
旦那は、もう潔癖症やめなはれ。
もう66歳なんだから、そんなに都合良くはいかないのよ。
この1971年、旦那が音楽を担当した映画を思い出して反省を。
この曲は、リズ・ゴーティの姉御でないと・・・ね。
Lys Gauty
パリ近郊のルヴァロワ=ペレに生まれる。
父親は自動車修理工で、家は貧しかった。
ゴーティはデパートの帽子売り場で売り子をしながら歌を勉強した。
当初はクラシック音楽を学び、次第にシャンソンに傾倒するようになる。
パリでデビューするが、1920年代はほとんど無名。
1932年に録音した「海賊の花嫁」が同年度ディスク大賞を獲得する。
1934年からミュージック・ホール「ア・ベ・セ」の初代看板スターとして出演。
1938年、映画「流しの女演歌師」に主演。
彼女の声は印象的にして退廃的なアルト。
ジョルジュ・ブラッサンスの「オーヴェルニュの人々に捧げる歌」
昔、貧しく苦労した時に、お世話になったオーヴェルニュの人々に感謝するという歌。
ワインで有名なブルゴーニュに隣接する地域。
世界的なタイヤメーカー、ミシュランの本社がある。
Les copains d'abord のハーモニカ演奏版
ジョルジュ・ブラッサンス(1921-1981)
南仏の港町セートで生まれ。
少年時代からシャンソンに魅せられ高校を中退、
パリの叔母の家に寄宿してルノーの自動車工場へ通いながら、詩やシャンソン、小説などを書き続けた。
その後、モンパルナスで歌い始める。
詩人にして歌手。
中世の吟遊詩人の伝統を引き継ぐ、フランスで最も愛されたシャンソン歌手。
実はシャンソンも良く聞いたのです。
一応、第二外国語はフランス語ですから。
ジョルジュ・ブラッサンス。吟遊詩人の雰囲気を持つシャンソン歌手のレコードも良く聞きました。
この人、ギターの弾き語り風、シャンソンなんですね。
Author:友遊
団塊世代の中小零細企業の代表。現場と市場視察が大好き。政財官の鉄のトライアングル、中央集権、日本的経営を支持する守旧派。既得権益死守。相互扶助を基盤とする協同組合支持。実業の世界とは、金融経済に対する実体経済の世界を意味する。