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2015-06-08 08:50

悲しき口笛

「悲しき口笛」は昭和24年9月に発売された美空ひばりのシングルである。10月には映画「悲しき口笛」が公開された。
この時、美空ひばりは12歳であった。
これが映画の冒頭部分。
戦災孤児の群れの中に居るひばり。

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その6年前、昭和18年に彼女の父が出征となり、その壮行会でひばりは父のために「九段の母」を歌った。
この評判が良かったので、ひばりは地元の横浜近郊からひばりの歌による慰問活動を開始した。

この6年間で彼女の歌は完成していた。
後年、ひばりは、わざとおどけて子供の声を作り「悲しき口笛」を歌うこともあったが、
12歳の彼女の歌う「悲しき口笛」は、子供の声ではなかったのである。
この曲は45万枚を売り上げ、ひばりにとって初めてのヒット曲となった。
ひばりは本楽曲のヒットにより一躍有名になった。


https://youtu.be/GorIRRmeFkg

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  1. 日本の音楽
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2015-01-18 22:52

「東京キッド」と川田晴久



「東京キッド」は美空ひばりの2番目の映画である。
最初の映画は「悲しき口笛」で、こちらの方が遥かに有名だ。
しかし、東京キッドは、ひばりが唯一、師匠と呼んでいる川田晴久と共演している。
川田がギターを弾き、ひばりが歌うスタイルは、その後も暫く続いたが、
やがて、ひばりが有名になるにつれて過去の話となってしまった。

しかし、ひばりの歌はすでに子供の歌ではない。
  1. 日本の音楽
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2014-03-15 11:13

星の流れに

星の流れに

1947年(昭和22年)10月にテイチクから発売された歌謡曲。

作詞:清水みのる

作曲:利根一郎

歌は菊池章子。

 

作詞した清水は、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ。

もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。

清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にした。

こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した。

 

当初、テイチクではコロムビアから移籍したばかりで、ブルースの女王として地位を築いていた淡谷のり子に吹き込みを依頼した。

 

しかし「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。

そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた菊池に吹き込みを依頼した。

彼女は歌の心をよく把握し、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々とした感覚で歌い上げた。

 

完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。

GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となった。

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以上、WIKIからの引用。

綺麗ごとを書いてますが、現実の悲惨さはこんなものではない。
戦争と言う部分を米軍、韓国人に言い換えて読まないとね。

 

淡谷のり子は、断ったのね。

確かに彼女には向いてないな、この歌は。

 

私は、この歌を1970年に、うんざりする程、聞いた。

歌は、白いギターを抱えた薄幸の少女という触れ込みで売り出した藤圭子である。

 

何故、聞いたかというと、当時、ビルの屋上のビヤホールでバイトしていたからである。

 

最初はビール注ぎ係

次はビールと料理、運び係

次はウエイター

最期はキャッシャー&音楽係

 

音楽係になってから、まずはモーツアルトのジュピターを掛けたら、店からヤメレとクレームが。

マイルスディビスも駄目で、サムテーラーなら良いという。

 

店から、特に推薦されたのが藤圭子のLPであり、この中に「星の流れに」が入っていた。

http://youtu.be/u8lsBSox2E0


 

 

 

 

 

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2013-08-27 12:47

このコメントで全てがわかる

 

誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。

 母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

 沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。

宇多田ヒカルのコメント

 

コメントの後半部分であるが、これを読めば全てが分かる。

 

全文はこちら。

 

http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20130827-1179351.html

 

 

 

 

 

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2013-08-24 14:01

ウナ・セラ・ディ東京

 

 

 

1963年にザ・ピーナッツが「東京たそがれ」として歌ったのが「ウナ・セラ・ディ東京」の始まりである。

しかし当時はあまりヒットしなかったが、翌年「カンツォーネの女王」として有名なイタリアの歌手ミルバが来日した際、本曲を歌った事を契機に一気にブームとなった(キングレコードのスタッフがミルバの歌唱力の高さを評価した上で本曲を歌わせる事を提案したとも言われる)。

 

ミルバの正確な日本語での歌唱も評判となった。

 

その後、ザ・ピーナッツの「東京たそがれ」も曲調をごく一部変更して、タイトルも「ウナ・セラ・ディ東京」に変更した(「ウナ・セラ・ディ東京」とはイタリア語で「東京のある一夜」(Una Sera di Tokio)と言う意味である)。

 

この頃から本曲がミルバの歌の影響からか、音楽界で再評価されることになり、遂にはザ・ピーナッツのヒット曲の一つとなっていった。

 

ほぼ同時期、和田弘とマヒナスターズ、坂本スミ子、西田佐知子も本曲を歌う様になり、日本でも4者競作となった。

(ウィキより引用)

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私は、この西田バージョンが一番、良いと思う

 

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2013-07-04 11:37

樽屋雅徳作曲:マードックからの最期の手紙

 

マードックはタイタニック号の一等航海士である。

タイタニック号が沈む前に、家族に手紙を書いている。

 

これをテーマに銚子の樽屋雅徳氏が作曲したもの。

各地の吹奏楽団で演奏されている。

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2013-03-03 20:26

君忘れじのブルース

雨降れば 雨に泣き
風吹けば 風に泣き
そっと夜更けの 窓をあけて
歌う女の 心は一つ
ああ せつなくも せつなくも
君を忘れじの ブルースよ

面影を 抱きしめて
狂おしのいく夜ごと
どうせ帰らぬ 人と知れど
女ごころは 命も夢も
ああ とこしえに とこしえに
君を忘れじの ブルースよ

ああ とこしえに とこしえに
君を忘れじの ブルースよ


淡谷先生の歌が好きだった。
戦前の世界が暗黒なものではなく、お洒落で豊穣なものであることが、彼女のブルースで分かる。

この「君を忘れじのブルース」は、彼女の戦後初のブルースである。




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2012-10-24 12:24

地上の星

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2012-10-06 10:28

夏は去る

 

1978年の「サーカス」のヒット曲。ハイファイセットではない。 

 

 

 原曲はフュガンの旦那。

 

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2012-08-13 09:24

明日という字は明るい日と書くのね・・・

 

1967年に結成された「ユキヒデ」は、たった1年で解散

ヒデは「ヒデとロザンナ」を結成。

佐藤ユキは、アン真理子に変身し、1969年に「悲しみは駆け足でやってくる」で再デビュー。

この歌は佐藤ユキの作詞なんです。

 

若いという字は苦しい字に似てるのだ。

 

しかし・・・この歌を知ってるのは、ご同輩ばかりなり。

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2012-08-12 22:04

「白い波」をご存知ですよね。ナベサダでんがな。

 

1967年に、和製ボサノバのデュオとしてデビューした「ユキヒデ」のデビュー曲。

このヒデは、後の「ヒデとロザンナ」のヒデである。

ユキと別れてロザンナとデュオを組むとは「裏切り者、投降主義者」と、当時の北京放送もヒデを非難していた。

 

でも・・・ボサノバのデュオでは無理だったのかも知れぬ。

この曲は渡辺貞夫の作曲。

当時、ナベサダは新宿のピットインや銀座の「ジャンク」などで、良く見かけた。それ程、売れてない時期であった。

 

 

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2012-08-08 22:39

恵比寿と目黒の間にある・・・

 

アメリカ橋。正式名は恵比寿南橋

山手線の目黒駅と恵比寿駅の間にあり、鉄製で青い。

もともとはアメリカセントルイスで1904年に開催されたセントルイス万国博覧会に展示されていたものであった。

それを日本の鉄道作業局(当時)が買い取り、鉄製の橋のモデル橋として1906年(明治39年)に現在地に架設した。橋は1970年に改築されている。

 

アメリカ橋って知ってますか  
目黒と恵比寿の間にある  
下を山手線ごうごう走る 
鉄でできた青い橋   
あなたが教えてくれたのね
あの橋の名前とわけを 
そしてそれが私たちの  
最後の思い出になりました
二人で暮らすことに   
やっと慣れたのは   
気圧配置も秋     
いわし雲が窓に見えていた 

 

 

アメリカ橋は残るでしょう

私が東京を離れても
そしてあなたを思い出すとき
山手線の音がする
最終電車の窓に
あなたの顔が
いくつも浮かんできて
ふるえながら消えて行くのよ
うらんでないわ今は
あなたがわかる     
大人に変わる橋を    
いつの間にか渡る季節ね
 

この曲は1976年に奥山侊伸が作詞、信楽順三作曲で奥山がレコーディングしているが、マイナーだったのね。

それを1979年に狩人がカバーをしてヒットをした。

 

この歌、何故か好きなのです。なんでだろ。 

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2012-07-21 07:42

夏の日の想い出

 

1960年代にハワイアンブームがあった。

日野てる子は、松山の出身。

1962年の全日本ハワイアンコンクールに優勝してから上京し、1964年にハワイアン歌手としてデビュー。

1965年の発表した「夏の日の思い出」は、100万枚を超えるヒットとなった。

歌うときは長いストレートの黒髪にハイビスカスの花を1輪飾っており、その姿が彼女のトレードマークであった。1965年、1966年、1967年と紅白に出演。

 

 

 

 

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2012-07-10 20:44

奥村チヨの時代

 

1969年は奥村チヨの「恋の奴隷」「恋泥棒」がヒットした年である。

「恋の奴隷」はNHKが「男の奴隷になりたい・・・悪い時はどうぞぶってね・・・などの歌詞は駄目」というので紅白では、やむなく「恋泥棒」を歌ったのであった。

そして1970年の「恋狂い」これで彼女の恋三部作が完成したのである。

 

1969年は大迷惑の大学紛争の年であったが、

私にとっては奥村チヨの年であった。

 

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2012-06-28 20:58

我が青春の伊藤エミ  感謝&合掌

 

1941年4月1日生まれの双子の姉妹。

ナギャーで伊藤シスターズとして活躍しているところを、

ナベプロの社長に見出される。

 

 

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2012-05-15 23:15

すてきなヒットソング

 

1978年の最初のアルバムの最期の曲。なつかし。

 

 

これが、ヒットソング「ヘイ・ポーラ」

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2012-05-15 23:01

まりやちゃんの歌

 

1980年のアルバムの冒頭の曲。なつかし。

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2012-02-12 23:46

加古の旦那と郁子姫の黄昏のワルツ

 

おやすみなさい。

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2012-01-08 00:13

かとうかなこ  若きアコーディオン弾き

 

 

かとうかなこ(1979年1月6日 -)は、日本のアコーディオン奏者。

大阪府豊中市出身。

4歳の頃よりアコーディオンを始める。

1990年 第6回全日本アコーディオンコンクール・小学生の部第1位
1993年 第7回全日本アコーディオンコンクール・ジュニアの部第1位
1996年 第8回全日本アコーディオンコンクール・総合第1位

1997年、高校卒業後フランスに留学。

ピアノ式からボタン式のクロマチックアコーディオンに転向。以来、日本を代表するクロマチック・アコーディオン奏者として活躍。

 

確かに動画を見ると、ボタン式である。

 

 

1998年 UNAF全仏アコ・コンクール・スタンダードベース部門、モアイヤンの部第1位


1999年 CNIMA国際アコーディオン学院入学。

   
2000年 ACF全仏アコ・コンクール・フリーベース部門 スーパーモアイヤンの部第1位

2001年6月:ACF全仏アコ・コンクール・フリーベース部門 オナーの部第1位

2001年 CNIMA国際アコーディオン学院卒業、4年間のフランス留学を終えて帰国

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2011-10-25 21:50

雨に濡れた慕情

 

1968年 ちあきの21歳の時のデビュー曲である。

レコードデビューは21歳ではあるが、芸歴は長かった。

米軍キャンプから始まり、地方のキャバレーを巡り、歌で家族の生活を支えていたのだ。

 

この歌は、当時の彼女の部屋でよく聞いた。

「いいわね」「上手いね」「分かるわ」と、いつも感心しながら彼女は聞いていた。

女性に好かれる女性歌手であった。

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2011-10-11 18:26

日はまた昇る

 

最近、You Tubeへのスペクトラムのアップが増えました。

喜ばしい限りです。

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2011-10-06 14:38

ダンスはうまく踊れない

 

これは私の持ち歌です。

8丁目で、この歌を歌っている禿頭の男が居たら、それは私かも知れない。

 

SONOさんの奥さんがジルバを上手く踊れないというエントリーを読んで、良い話だなあと思いました。

 

「あまり夢中になれなくて」

 

上手く踊れる男女もあれば、

上手く踊れない男女もある。

 

上手く踊れなくても何の問題も無いのです。

上手く踊れても何の問題も無いのです。

それは男女の微妙な関係だから。でも、なぜか夫婦は上手く踊れないことが多いような気がするな。

 

それにしてもSONOさんは何処に???

 

一瞬にして消えてしまったが??

 

IZA隠しにあっただよ。

 

 

http://sopnoraone-3.iza.ne.jp/blog/entry/2466545/allcmt/#C2313149

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2011-10-04 03:39

有楽町で逢いましょうフランク永井

フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は1957年のヒット曲。

小学生時代にラジオから流れてくる歌を聞いた。

 

フランク永井は1932年生れ。

宮城県から上京後、米軍キャンプの厨房の賄いからスタート。

トレーラーの運転手などを経て米軍キャンプのクラブ歌手となる。

1954年に日本ビクターと契約。1955にカバー曲「恋人よわれに帰れ」でデビューした。

その後、吉田正氏に認められてから歌謡曲を歌うようになる。

最初のヒットが「有楽町で逢いましょう」、続いて1961年の「君恋し」である。

その後、力道山が経営していた赤坂のナイトクラブ「リキ」で歌っていた松尾和子をスカウトし、「東京ナイトクラブ」を吹き込む。

 

残念ながら、今の東京には当時のクラブの雰囲気のある店は存在しない。全ては過ぎ去った日々である。

 

 

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2011-09-29 12:33

公園の手品師フランク永井

この曲は昭和33年頃にEPシングルレコード(LPの前にEPがあったのです)で発売された「たそがれ酒場」のB面に入っていた地味な曲。

それを1977年にフランク永井がリメイクして再発売。

その後、密かにブームとなっている曲である。

 

公園の手品師とは「銀杏」のことである。

 

以下は珍しい昭和33年バージョン。 

 

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2011-09-29 12:21

食卓のコスモス

昨日、花屋で一鉢、買ってきた。

子ども頃、家々の庭や、土管のおかれている広場に

コスモスが咲き誇っていた。

 

 

今は都市化で庭も無くなった。

食卓に置かれたコスモスの鉢植えを楽しむだけである。

 

そして、このコスモスの歌を聞く・・・。  

 

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2011-09-28 16:39

ピエール・ブゾンをご存知ですか?

 

ブゾンの旦那は1972年の11月に日本でアルバイト。

帝国ホテルのレストランで、カクテル・ピアノを弾いていた。でも、巡業は3ヶ月だけで、1973年2月には、おフランスに帰る。

 

このブゾンのピアノを、録音技師の菅野の旦那が録音し、オーディオ・ラボという自分の会社からレコードで出す。

 

最初はオーディーオマニアが購入。

自分のオーディオの自慢する時にやたらと、このレコードをかけるものだから、やがて一部で有名になる。

 

「どうだ、いいだろう」

「いいね」

 

会話はこうなっているが・・・

「どうだ、俺のオーディオ、良い音だろう」

「このブゾンのピアノ、いいね」

 

実は話が噛みあっていない。

 

そういう訳で、私も、このレコードを購入した。

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2011-09-27 22:04

A Fiddler In Wonderland

 

中西の旦那の「不思議の国のバイオリン弾き」というCDは、1985年に密やかに出た。

私は銀座の山野楽器で購入したが3300円であった。

曲名と演奏者の名前しか掲載されてない、極めてヤル気のないジャケットであった。

まあ、曲が聞ければ良いわけですから気にしないの。

 

収録曲は全てディズニー映画の主題曲や収録曲。

自宅の仕事部屋のBGM用に購入したのである。

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2011-09-27 10:19

中西俊博をご存知ですか?

 

1985年にリリースされたCD「サイレント・ロマンス」の最後の曲が、このライムライトである。

映画音楽をばかりを納めたお洒落な、彼の2作目のCDであった。

私はデビューアルバムと2作目のアルバムを持っている。

発売当時に購入した。

 

中西俊博は1956年生まれのバイオリニスト。

1981年のクインシー・ジョーンズ来日公演の時、

ソロヴァイオリニストを勤めた。

 

 

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2011-09-26 23:12

溝口肇をご存知ですか?

"><param

 

最初に購入したCDは、この「水の中のオアシス」(1986年)

彼の2番目のCDだと思う。

デザイナーの事務所でBGMとして流れていたので、

「これ、いいね、誰の曲?」
溝口肇だよ」

「シラネ」

それからレコード店で探して購入。

彼の音楽は、テレビドラマのバックなどにも使われた。 

 

1960年生まれの日本のチェロ演奏家兼作曲家。

 

 

 

 

 

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2011-09-20 23:16

山本潤子さん素敵(2)

 

この方とは同世代ですからね。

大学時代、文化祭に「赤い鳥」は必ず来ていました。

友人が実行委員会をやっていてギャラの交渉もしてましたな。懐かしい。

 

潤子さんが結婚して、最初のヒット曲が、この「フィーリング」。安定した歌唱力は、お年を召されても、衰えない。

 

素敵です。

 

 

 

 

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2011-09-19 13:59

山本潤子さん素敵

 

山本 潤子、1949年12月、奈良県吉野郡天川村出身。

性格は「一見クールだが、天然」。

 

大阪市の阿倍野の歩道橋上で、当時すでにロック・キャンディーズで活動していた谷村新司に声をかけられ、「ヒルビリー・シンガーズ」のボーカルとなったが三ヶ月しか続かなかった。

 

1969年、後藤悦治郎、平山泰代、山本俊彦、大川茂とともにフォークソンググループ「赤い鳥」を結成。

 

1974年 「赤い鳥」を解散し、山本俊彦、大川茂とともに新グループ「ハイ・ファイ・セット」結成。


1975年、東芝EMIエキスプレスより「卒業写真」でデビュー。

1977年 「フィーリング」発表。大ヒットとなり、その後も「冷たい雨」(作詞・作曲:荒井由実)、「忘れないわ」(作詞・作曲:小田和正)などがヒットする。

1994年 「ハイ・ファイ・セット解散
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「燃える秋」は武満徹先生の作曲でしたか・・・。

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2011-09-08 21:44

この国に生まれてよかった

 

 

sonoさんのお宅で聞いた。

何となく聞いたことがあった。

特に「この国に生まれてよかった」の部分。

調べて見ると1991年頃に流れたハウス「ねりワサビ」のCMに使われた曲であった。

 

もちろん、ワサビと関係なく歌は素晴らしい。

 

村下孝蔵 
1953年2月28日生まれ

出身地 熊本県水俣市
死没 1999年6月24日(満46歳没)

 

今年の夏、「この国に生まれてよかった」と題するベストCD盤が発売された。

 

今、再び注目される歌手である。

 

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2011-09-08 18:58

避暑地の恋

 

1973年の3月のシングル。

この後が「テントウムシのサンバ」

さらに、その後が「白いギター」ですね。 

 

 

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2011-07-23 00:53

合唱曲 COSMOS

 

 

 

去年、撮影した支笏湖。至福の時。

 

 

 

 

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2011-07-22 22:30

なぜに悦ちゃんは草履虫なんかと・・・

別に悦ちゃんはタイプでないので、

ドーでも良いことではあるが・・・

1970年頃はグループだった。

 

 

しかし、このグループ、悦ちゃんのボーカルが主体で、

むさ苦しい男達は、後ろで演奏に専念しているか、時々、はもるだけ。 

 

ところが1973年になると、大幅なリストラ。

草履のような顔の男と2人になった

 

悦ちゃんが草履顔の男と結婚したとのこと。

 

そこで「なぜに悦ちゃんは草履虫なんかと・・・」と言われたのであった。 

 

 

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2011-07-18 10:41

伊勢佐木町ブルース

 

伊勢佐木町ブルースは1968年1月に青江三奈が発売したシングルである。

 

1968年といえば新左翼の先導により学園紛争の火が付いた年である。 書店には「反逆のバリケード」等の本が積まれていたが、読む人は一部であっただろう。

 

この時代の若者は、皆、新左翼の影響を受けてバリケード内に居たと思ってる人もいるらしいが、ほんの一部の学生が勝手に校舎を占拠したので、多くの学生は教室に入れなくなっただけである。

 

それで、学校の近くのジャン荘で、授業が始まるのを待っていた。図書館は占拠されてなかったので、自習の学生で混んでいた。

 

これが実態。

 

青江三奈はこの時代に現れた。この伊勢崎町ブルースの特徴は冒頭の吐息と中盤のスキャットである。

極めて個性的で、極めてお洒落で、私は一発で彼女のファンになってしまった。

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2011-07-14 17:22

sonoraoneさんに捧げる曲  再会

 

八丁目で、この歌を歌っている初老の紳士????がいたら私です。

 

再会を楽しみにしております。

 

何?監獄に入ってないって・・・

 

そいつは失礼いたしやした。

 

 

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2011-07-09 11:16

山路の閉店を思いつつ・・・

 

日本人の詩による初の賛美歌 「山路こえて」 

 

 

相模さんのコメント

 

山路と聞いて思い浮かぶのは讃美歌404「山路越えて」です。初の日本人作詞の歌です。
私は渋滞車中のイライラ防止に讃美歌のCDを積んでいます。讃美歌は良き効能があります。(明治のキリスト教徒の信仰の質の高さは、今の人々とは異質に見えます)

「山路こえて」作詞:西村清雄(明治4年生)作曲:アーロン・チャビン

 山路こえて ひとりゆけど、
  主の手にすがれる 身はやすけし。

 松のあらし 谷のながれ、
  みつかいの歌も かくやありなん。

 峰の雪と こころきよく、
  雲なきみ空と むねは澄みぬ。

 道けわしく ゆくてとおし、
  こころざすかたに いつか着くらん。

 されども主よ われいのらじ、
  旅路のおわりの ちかかれとは。

 日もくれなば 石のまくら、
  かりねの夢にも み国しのばん。
 

 

 

聖歌497番 神ともにいまして

世界で最も多く歌われる「送別」の歌。

 

神ともにいまして
ゆく道をまもり
あめの御糧もて
ちからを与えませ


また会う日まで
また会う日まで
かみのまもり
汝が身を離れざれ

 

荒野をゆくときも
あらし吹くときも
ゆくてをしめして
たえずみちびきませ

 

また会う日まで
また会う日まで
かみのまもり
汝が身を離れざれ

 

御門に入る日まで
いつくしみひろき
みつばさのかげに
たえずはぐくみませ

 

また会う日まで
また会う日まで
かみのまもり
汝が身を離れざれ

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2011-07-05 23:02

伊勢佐木町ブルース

 

 

青江三奈(1941年- 2000年)は、東京都江東区砂町出身の歌手。東京の下町生まれの姐さんである。

 

高校在学時から東京・銀座の「銀巴里」でステージに立つ。

高校卒業後、西武百貨店勤務の後、クラブ歌手となり、1966年、「恍惚のブルース」でメジャーデビュー。

 

デビューは25歳とかなり遅いスタートである。

 

私はデビュー当時から青江三奈のファンであり、特にこの伊勢崎町ブルースは好きで8丁目で良く歌っている。

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2011-05-13 12:29

シルエット・ロマンス  大橋純子

 

1950年、夕張市生まれの歌手。

同世代なので、もう還暦過ぎました。

短大在学中から歌っていて、今でも活躍中で、歌も昔と変わらない。

売れても、売れなくても変わらない。

こういう歌手がいいですね。

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2011-03-03 21:01

雛祭り

 

お内裏様と おひな様
二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉様に
よく似た官女の 白い顔

 

金の屏風に うつる灯を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 召されたか
赤いお顔の 右大臣

 

 

着物をきかえて 帯締めて
今日はわたしも 晴れ姿
春の弥生の この良き日
なにより嬉しい 雛祭り
----------------------------------

1935年、サトー八チロー作詞

 

素晴らしい歌詞です。

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2011-02-15 21:23

犬は喜び 庭駈けまはり、猫は火燵で丸くなる

 

 

コンコンではないのである。

こんこ・・・なのだ。

 

 

雪やこんこ 霰やこんこ。
降つては降つては ずんずん積る。
山も野原も 綿帽子かぶり、
枯木残らず 花が咲く。

 

雪やこんこ 霰やこんこ。
降つても降っても まだ降りやまぬ。
犬は喜び 庭駈けまはり、
猫は火燵で丸くなる

 

明治44年に文部省唱歌となる。

作詞者不明

作曲者不明

 

情景が目に浮かぶ、素晴らしい歌詞である。

 

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2010-07-15 15:42

「港町」という名の駅がある

 

京浜急行の「港町駅」である。

どこにあるかというと、京浜川崎から大師線に乗り換えて、最初の駅が「港町」である。

一日の乗降客は4000名弱と、京浜急行では最も少ない。

 

この駅は、以前は「コロンビア前」という名称であった。

日本コロンビアが、この近くにあったからだ。

今では「日本蓄音機発祥の地」の道標があるだけだ。

 

 

駅のホームからの風景。

この巨大な空地は、誰の所有なのであろう?

その向こうにあるのは多摩川である。

 

港町という地名なれど港は無い。

そこで「港町13番地」でも聞いてみる。

美空ひばりの歌の中で好きな歌のひとつ。

 

 

 

 

 

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2010-05-12 00:01

伊東ゆかり(1967年~1971年)

「シャボン玉ホリデー」(1961~1972)のレギュラーとして、主に洋楽を歌っていた伊東ゆかりが、歌謡曲の分野でヒットを飛ばしたのが、1967年の「小指の想い出」である。

 

そして、1971年まで、次々とヒットを飛ばす。

 

・小指の思い出(1967

・あの人の足音 (1967.09.01)
・恋のしずく (1968.01.20)

・星を見ないで (1968.06.01)

・朝のくちづけ (1968.10.10)

・知らなかったの (1969.02.01)

・愛して、愛して (1969.06.01)

・朝を返して (1969.09.25)

・青空のゆくえ (1969.10.20)

・裸足の恋 (1970.01.20)

 ・結婚 (1970.05.01)

わたしだけのもの (1970.06.25)

・さすらい (1970.10.01)

・誰も知らない (1971.10.25)

 

世の中は1968年の大学紛争から1970年の安保闘争と、政治の季節を迎えていたが、彼女は、男と女の間に生まれる愛&恋についてのみ歌ってきた。

 

今、これらの曲を聞き返すと、当時の思い出すとともに、

とても上質な「恋の歌」を感じる。

 

最大のヒット曲である「恋のしずく」も好きだが、

「あの人の足音」も良い。

「青空のゆくえ」は名曲だと思う。

 

 

 

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2010-03-17 09:06

天鵞絨の歌声 津村謙

 

天鵞絨(ビロード)である。

この美声は、今、聞いても素晴らしい。

津村謙は1923年生まれ。

 

1961年に自宅の車庫で排気ガスの一酸化炭素中毒で死亡。37歳であった。

頑固なまでに自分の音楽美学に、こだわる男だったらしい。

 

1951年の映画「上海帰りのリル」の主題歌がヒット。

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2010-02-11 23:41

「さくら貝の歌」と八洲秀章

「さくら貝の歌」は、子供の頃、母が良く歌っていた思い出の曲である。母は女学校の合唱団の出身で、良く声が伸びた。
「本当はソプラノなのに、入団テストの時に津川先生の前であがって声が出ず、メゾソプラノに回された」といつも言っていた。
津川先生とは、多くの賛美歌を訳している津川主一である。

 

「さくら貝の歌」は、八洲秀章(1915-85)が戦時中に作曲したが、約10年間、お蔵入りとなっており、昭和24年にNHKの「ラジオ歌謡」として小川静江の歌で放送された。

 

美しき 桜貝ひとつ
去り行ける  きみに捧げん
この貝は   去年の浜辺に
われ一人   拾いし貝よ

ほのぼのと うす紅染むるは
わが燃ゆる さみし血潮よ
はろばろと 通う香りは
きみ恋うる 胸のさざなみ

ああなれど
わが想いは儚く
うつし世の渚に果てぬ;

 

 
鎌倉の浜辺を彷徨しながら失ってしまった恋人を思う唄である。

メロディもセンチメンタルにして清浄。
昭和40年頃に賠償千恵子が歌いリバイバルした。
 

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2010-02-10 04:19

赤坂の夜は更けては

西田佐知子の歌で、一番好きなのが、1965年の「赤坂の夜は更けて」である。
彼女の代表作は「アカシアの雨がやむとき」と言うことになっているが、西田本人は「辛気臭い歌」と嫌っていたらしい。

この感じはなんとなくわかる、
西田 佐知子は1939年、大阪市に生まれる。
1956年頃に歌手としてデビュー。
1961年に外国曲をカバーした「日曜は駄目よ」「コーヒールンバ」がヒットした。
「昔、アラブのえらいお坊さんが、恋を忘れた哀れな男に・・・・」
西田佐知子のイメージはパンチの効いたルンバを歌う大阪の元気な女歌手であった。

「アカシヤの雨がやむとき」は1960年の安保闘争を背景に売れ始めた曲。

「赤坂の夜は更けては」は1964年の東京オリンピックが終わり、
日本経済は高度成長に走り出している時期である。

いま頃どうして いるのかしら
せつない想いに ゆれる灯影
むなしい未練とは 知りながら
恋しい人の名を ささやけば
逢いたい気持は つのるばかり
赤坂の夜は 更けゆく


西田佐知子は1971年に結婚してから、あまりテレビに出なくなる。専業主婦に徹したようである。
彼女も現在、69歳である。

YOUTUBEに「赤坂の夜は更けて」がアップされていた。
スタスタと舞台に出てきて、スタスタと帰るのが彼女の特徴。
あっさりした性格なのか?とも思う。
 

 

 

「アカシヤの雨」は映画になった。主演は浅岡ルリ子。
近所の映画館で上映していたことが、かすかに記憶にある。

 

 

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2009-10-26 02:52

君恋しフランク永井

「君恋し」は、昭和3年に浅草オペラの歌手の二村定一が歌いヒットさせた曲である。

 

  

それを1962年にフランク永井がカバーした。

そのため、歌詞も、実に古風である。

 

宵やみせまれば 悩みは果なし
乱るる心に うつるは誰が影
君恋し くちびるあせねど
涙はあふれて 今宵も更けゆく

 

 

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2009-10-21 00:31

SPECTRUMをご存知ですか?

ブラスバンドをフィーチャーしたロックといえば「シカゴ」が有名だ。
1970年代に日本では「長い夜」が大ヒットした。
私も当時は「長い夜」の入っているアルバムを購入したが「シカゴ」は、この1枚で終わった。
ところが「シカゴ」には律儀にアルバムを買い続ける固いファン層が存在していた。
 

 

で、突然、話が変わるが、日本にもブラス・ロックがあった。
SPECTRUMである。
1979年の8月に、この連中が突然テレビに出て来た時は、ぶったまげた。
「奇妙すぎるぞ」と思った。

古代ローマの戦士のような、キンピカの鎧と兜を付けて、トラッペットやトロンボーンを吹きまくる。
最初に登場した時の甲冑衣装。
将来のビック・バン・ベーダ-の衣装に影響を与えたと思われる。


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これだけでも奇妙なのに、歌はフォルセット(裏声)を使ったボーカルで、このアンマッチがたまらない。
(なお、ボーカルは3人で、フォルセットボーカルは1人だけ、他はロックボーカル)

音楽は素晴らしかった。
彼らは、歌手の後ろで演奏しているバックバンドのメンバーで、
一般的には名も無く、誰も知らないが、毎日、毎日、音楽をやり、さらに、殆ど画面には出ないがテレビ出演も、ライブの経験も充分に積んでいるからだ。
当時、私の友人の一人がスタジオ・ミュージシャンをやっていたが、こうしたバックの連中は、顔が出ないので、音楽以外は評価されない。その分、厳しい世界である。

SPECTRUMのメンバーはキャンディーズ等のバックバンドが母体となっる結成されたという。
キャンディーズのバックは、レベルが高くて有名だったが、1978年4月にキャンディーズが解散してしまったので失業したのである。

SPECTRUMの曲で印象的なのがIN THE SPACEである。

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F・L・Y・・・これも覚えている。


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解散ライブで盛り上がる。泣いている女の子もいるぞ。

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<おまけ>
古いプロレス・ファンならご存知。
スタン・ハンセンの登場テーマはSPECTRUMのSUN LISEであった。

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2009-10-11 18:50

伊東ゆかり特集やってます

 

裏のプログ、「気分は友遊」にて、伊東ゆかり特集をば、やっています。3回連続。

 

http://yuyuudouga.at.webry.info/

 

同じ品川区生まれの、お姉さまです。

1947年生まれですから、私より4歳上。

 

ということは、私が小学一年の頃は、5年生だったということです。

 

幼少期から進駐軍キャンプで唄い始め、11歳のとき「クワイ河マーチ」(映画「戦場に架ける橋」テーマソング)でキングレコード(後に移籍)より本格デビュー。

これは美空ひばりのデビュー年齡(12歳)よりも早い。

 

11歳というと、小学5年生です。

私が防空壕の跡で遊んでいた頃、

彼女は進駐軍のキャンプで歌っていたということです。 

 

1965年にサンレモ音楽祭に、日本人で最初に参加して入賞。その後、1968年頃から歌謡曲を歌うようになり「小指の思い出」などがヒットします。

 

 

Fly me to the moon
And let me play among the stars

Let me see what spring is like
On Jupiter and Mars.

In other words, hold my hand
In other words, darling kiss me.

Fill my heart with song
And let me sing forevermore

You are all I long for
All I worship and adore.

In other words, Please be true
In other words, I love you.

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